震災直後、原発の問題や余震もあり、業務途中で会議室に職員が集められて
帰宅指示が出たり、アポ先から面会を延期したい旨の電話が入ったり、
乗った電車が止まったりと非常に不安定な日々が続いた。
3月17日に林野庁に文書を届けて以降は、一転して、
静かにひたすら海岸林の資料や論文を読み漁る日常が始まった。
私は日本の海岸林については駆け出し。
海岸林が何故、何のため、人の手で作られたのか、ごく基本的な事を知る必要があった。
中でも繰り返し読んだのが、昭和35年のチリ津波から一年で出された
ブログタイトルの報告書(宮城県農業試験場・佐々君治山報恩会 1961)。
忘れられない資料である。宮城県が出したものをネットで拾った。
書いた人達の無念や悔しさ、後世に必ず役立てるという必死さ、
海岸林への愛情を持って、プロとして渾身の力で書いた迫力が冒頭から伝わってきた。
震災直後は直感でしかなかった海岸林の有用性は、
今の言葉で言えば『減災』にも資するのだと確信した。
「庄内海岸のクロマツを讃える会」の資料にも衝撃を受けた。
昭和30年代、三世代が大きな一つ傘の下で一家団欒の食事する白黒写真が
残されていることに、撮影した人の思いを感じた。
ちょっとした隙間から家の中まで砂が入るという信じられない光景。
大事なご飯に砂が被ったらどんなにガッカリすることでしょう。
もし気付かず歯で噛んでしまったら、それは堪える。
沿岸に住む人達の、風と砂との長い戦いの歴史に、
自分の関心はフォーカスされていった。
APECで小泉元総理がシンガポール首相から質問されたという、
和歌山県田辺市の濱口悟陵氏の足跡もネットから探した。
大まかに言って、この頃得たのは、日本は海と海岸林に囲まれており、
日本には日本の、世界には世界の海岸林があるのだという全体感。
特に、艱難の末、社会のインフラとして人々の手によって作られたのだという歴史観。振り返ると行動指針を定める重要な過程だったと思う。
また、阪神大震災の緊急支援の渦中で感じた我が職場の限界や、
餅屋は餅屋、長期復興支援こそオイスカ本領発揮の場との思いを強くしていった。
5月24日に初めて陸上踏査に入るときはまた、
この報告書はお守りのように、鞄の中に入っていたと思う。

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