我が闘走②
●わたしの3原則
勝負事は試合の入り方が肝心。スタートから5kmは、とにかく確認、確認を繰り返しました。
①着地、②姿勢、③目線。「最初」が悪いと一日悪くなる。オーバーペースにならぬよう、
この3原則を確認しながらの5kmでした。練習の時は20kmを過ぎると大体どれかが悪くなり、
姿勢が崩れてきましたが、レース全体的にカラダのバランスは比較的良かったように思います。
痛いのも左右対称だったし。
●仲間とすれ違う
レース前半は、コースですれ違う人波の中から、オイスカのチャリティランナーを探していました。
かなりの人を見つけて、化学総連旭硝子労組のKさんをはじめ、半数以上の方には大声で声をかけました。
3回すれ違ったフィリピンの方はさすがに笑ってました。藤澤さんとは今晩飲む約束したり。
また、本当に偶然、うちのランナーの方が体調が悪そうなのに気づき、救護の方と一緒に並走しました。
救護室が見えたら、私は置いて行かれそうになるほど元気になったので安心しました。
初めて会う方だったので、お礼も言うことができて良かったです。
●ショッカー
名物ランナーもいろいろ。一本足の下駄の武蔵坊弁慶、数人並んでスーツ革靴で走るサラリーマン、
ジャグリング。今回は誰とも会いませんでしたが、ショッカー(仮面ライダーの)がいました。
沿道から「ショッカー頑張れー!」と言われても、言われなくても、例の声を出し続けて走る。
中間地点ぐらいまで私のペースメーカー。後ろでずっと笑ってました。誰かに見せたい大阪。
お尻に「ショッカー愛知県支部理事長」「会長」と貼ってました。
●声援のありがたさ
僕が走るのは最後列。もう人は少なくなっています。それでも声援には励まされました。
ゼッケンを見て「オイスカ!しっかり!」と名指しで言われたり。「さいなら。さいなら」と
言い続けている車椅子のおばあちゃん集団に吹き出したり。給水のボランティアの方も大勢。
20km以降には、朝からレースが終わるまで演奏し続ける吹奏楽部が何隊も。
「宇宙戦艦ヤマト」で古代君になりきりました。
●ヤマ場
私の未知の領域は25km以降。それ以上は練習できなかったので。思った以上にガクンと来ました。
即ストップ、先手でケアと決めていたので、中央分離帯で靴下まで脱いで、10分ぐらいアグラかいて
エアサロンパスとマッサージ。2回大ブレーキありました。大阪の会員企業、ネクスタ㈱の米山さんが
花園町で「最後まで頑張れ!」と大きな声。これ、最後まで頭に残りました。
●アドレナリン
「一番ヤバイときは」と決めていた通り、モモを本気で叩き始めたのは、キリのよい丁度30km地点から。
また、むかし、現役時代の谷川真理選手が、声を出して呼吸しながら走っていたのも真似ました。
呼吸でリズムやペースを確認できることが分かり、練習で繰り返していたので。
振り返ると、アドレナリン出てたと思います。住之江公園の36kmあたり、東京本部の増留ちゃんが
橋の上から応援してくれたあたり、人に見せたくないレベルの気合が入っていました。
●どら焼き
38kmあたり、地元の方が食べ物を提供していたのでしょうが、私は最後尾集団。空のバンジュウばかり。
でも「らっきょ、あります!」と聞こえたのでいただくと、芸人さんが笑いを取りながら、
どら焼きも配っていた。カメラが回っていたけど、思わず行っちゃいました。
レース翌日、大阪の会員さんから電話があり、「吉田君、NHK大阪でどら焼き食べてるの映ってたよ。
38kmでよく食えるね~。笑ったよ。あそこでテレビ出ちゃうんだし」と。
●さすがにもう飽きた
41kmの時間制限の最終関門をクリアした途端、「もう十分だ」と歩くことにしました。
30kmからここまでは頭が真っ白でした。ものすごく遅いのですが、無心で。あっという間でした。
スゴイ橋も走って超えました。腰も悪化せず、足のマメも潰れずに済み、運が良かった。
テーピングが効いたのだと思います。
●病院にゴール?、収容車でゴール?
前日までは、時間内のゴール、完走など考えていませんでいた。
フィニッシュゴールは撤去済みで当然と思ってました。「運でゴール」したと思っています。
ゴールでは辛かったことはぜんぶ忘れてました。久美子さんたちと握手し、ドヤ顔。
病院送りされたら…と本気で思っていたので、手荷物は預けず、何があってもいいように
1万円札も小銭もポーチに入れていました。でも、保険証、忘れてました。
藤澤さんたちと飲みに行きましたが、ビール2杯でブレーキ踏みました。
●次の日、その次の日
当日に合わせ、毎日早起きしていたので、同じように起きました。
代休を取っていたので、昼過ぎには家に帰って、ビールを飲んで、崎陽軒の焼売たべて寝ました。
腰も足も、カラダは大丈夫です。いまも。
●すべてが「未知との遭遇」
これまで3回、延べ98人が大阪に挑んでくれました。どんなに多くの時間をかけて準備し、
どういう思いで走ってくれたか、カラダで知りました。宮城に戻り、防風垣に掲げた
大阪マラソンランナーのプレートを見た時も、今までと違う思いでした。
応援することも楽ではありません。これはよく知っています。
また、私自身はどう考えても、自分の力だけで走れたとは思わないのです。まったく。。
後日、河北新報社の記者さんから「なにか変わりましたか?」と聞かれて思ったのは
「自分が諦めなかったのもみんなのおかげ」と思ったこと。不思議な感覚です。
●そして来年は?
大阪マラソンは11月末の開催に変更になり、寄附先団体が公募が始まりました。
開催内容に変更があり、自然にかかわる団体の門が狭くなるのですが、応募します。
もし審査に通ったら、また走ろうと思っています。今年ぐらい遅い走りだと思いますが。
みなさんも、よかったら、未知との遭遇しませんか?