こんにちは。浅野です。
先日、現場に行った際に東北学院大学の菊池先生にお会いしました。
菊池先生のお話を聞いてまだまだ知らないこと、
学ばなくてはいけないことがたくさんあると改めて感じたので、
ご紹介させていただきます。
菊池先生は歴史学(日本近世史・女性史)がご専門で、
『「杜の都・仙台」の原風景』、『江戸時代の老いと看取り』(筆名 柳谷慶子)などの著書があります。
緑地景観の歴史的変遷をたどる研究を進めるなかで、
東北地方のクロマツ海岸林の成り立ちに関心をもち、文献調査を続けているとのことです。
最近では岩本由輝編『歴史としての東日本大震災』に「失われた黒松林の歴史復元」と題して、
仙台市宮城野区沿岸部のクロマツ林の歴史を明らかにする論考を書かれています。
震災後はこのプロジェクトにも関心を寄せていただき、ご支援くださっています。
ここからは豊田推進協議会の方へ菊池先生がされたお話です。
東北地方沿岸部のクロマツ林は、太平洋側も日本海側も自生林ではなく、
17世紀以降、西国などから種子や苗木を導入して育ててきた人工林です。
約4世紀をかけて、潮害や風害を防ぐ森林として育てられ、
防災役割を担いながら更新されてきたクロマツ林の大半が、
東日本大震災の津波には耐えきれず、一瞬にして消失してしまいました。
この地のクロマツ林の長い歴史に顧みると、オイスカが提唱して開始された、
今後10年でクロマツ林を再生させるプロジェクトというのは、大冒険というべき試みです。
さらに、地元の被災農家がクロマツの苗木をつくり、地域を越えて市民や企業が金銭的に支援して
作業の実働にも参加するシステムがつくられたことは、
新たな社会インフラづくりとして歴史に刻まれることになるでしょう。
現在、現場で直面しているさまざまな問題は、
これまでの試行錯誤の延長線上にあることにも関心を向けてみたいと思います。
名取の沿岸部を含めてクロマツが植林された宮城県一帯は、4世紀前は仙台藩領でした。
藩政初期の1611年に東日本大震災とほぼ同規模の慶長三陸地震の津波に襲われましたが、
塩害被害の大きかったこの地に新田開発が進み、田畑と集落を潮害から守るために、
沿岸に徐々にクロマツの植林が進みました。
当時の絵図を見てみると、現在の名取市沿岸部は、
仙台藩領のなかでも早い時期に植林が進んでいたことがわかります。
これを指導したのは、藩政初期の土木事業で中心的役割を果たした
川村孫兵衛の二代目孫兵衛元吉の可能性が考えられます。
植林の具体的な経緯が知られるのは、現在の宮城野区沿岸部ですが、
それによると、17世紀半ば過ぎに植えられたクロマツの大半は、
当初はかなりの枯損が生じて、村で植え替えています。
用水路の土手を除けば大半は砂浜に直接苗木が植えられましたので、
根づかせるのに相当の苦労があったはずです。
南の磐城平藩では苗木の植林に際して根元を粘土で固めていたことがわかっていますが、
仙台藩領ではどのような技術が摸索されていたのか、知りたいところです。

豊田推進協議会の方々と 前列右から2番目が菊池先生

豊田推進協議会の方々と
前列右から2番目が菊池先生


藩政時代が終わり、明治・大正・昭和と続く植林事業も、国有地に地元農民の動員があり、苦難の作業が続きました。
代わりに松林は、枝木や松葉など燃料を供給し、松露やハツタケなど食糧を採取する場としても、地域の暮らしと深く関わってきました。
これから造成されるクロマツ林には、400年に一度は訪れるであろう大震災に耐え抜く強靭さが求められています。
苗木づくりと植林作業の後には松林を保全するための活動も末長く続きます。
地元はもちろん、全国のみなさまにも、世代を超えてご支援をいただけることを願っております。

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