2025年3月20日

「箸とらば」第22回 春分の日に箸をとる

  • 本部スタッフ
  • みなさん、こんにちは! 本部・海外事業部の武原です。毎回、私が体験したことを「箸とらば」と題して発信しております。今回のテーマは、「春分の日に箸をとる」です(前回のブログはこちら)。

    事務所3階からの夕日

    春分の日が巡ってきました。昼と夜の長さが等しくなるこの日、天地の均衡が整うとされます。古来、日本人はこの節目を大切にしてきました。太陽神・天照大神が天岩戸から出る神話に見られるように、闇から光へと移りゆく時は、新たな始まりを意味しました。冬の長い夜が明け、春の気配が確かに感じられる頃、日本人は静かに箸をとります。

     春分と箸。この二つのつながりは、一見すると遠いもののようにも思えます。しかし、古典をひもとくと、そこには多くの示唆が隠されています。神々の祝宴、詩人たちの宴、旅人の膳、隠者の粥。いずれも春分の日の食と深く結びついています。

     『古事記』や『日本書紀』には、食と神々の関係が随所に描かれています。特に、『日本書紀』に記される「神武東征」では、神武天皇が大和へ向かう途中、豊穣を祈る祭祀を行い、供物を捧げた記録があります。これは春分の日の太陽信仰と関係があるとされ、農耕の始まりと結びつけられます。

     『日本書紀』の崇神天皇の条には、農耕神に対する供物の記述があります。

    「乃ち大田田根子を以ちて、大神の祀主と為す。仍りて神田を定めて、歳の穀をもって祭る。」  (日本書紀 巻五)

     これは、稲作とともに神々へ供物を捧げる儀式が確立していたことを示しています。春分の日は、農耕の周期における重要な節目であり、古代の人々が収穫の恵みを神々に感謝する日でもありました。

     また、天照大神の神話においても、春分との関連が見て取れます。『日本書紀』には、天照大神が天岩戸から再び姿を現した際、神々が祝宴を開いたことが記されています。

    「爾に諸神共に歓喜びて、歌舞し楽を奏で、天香山の木の枝を抜きて、鬘と為す。」日本書紀 巻一

     この祝宴は、太陽の復活と春の訪れを祝う儀式と重ねることができます。春分の日には、神々への供物を通じて、古代人は自然の恵みに感謝し、生命の循環を祝っていたのでしょう。

     春分の日の「食」に着目すると、北宋の政治家・詩人・文章家の蘇 東坡の詩「春夜」が浮かび上がります。

    「春宵一刻 直千金 花に清香有り 月に陰有り 歌管楼台 声細細 鞦韆院落 夜沈沈」

     当時(北宋)貴族の邸では寒食という行事があったそうです。陰暦3月の清明節の前後3日間ほど、火を使わないで冷たいものを食べる風習です。この行事も一つの節会で、昼間は高殿で貴族が歌や笛の雅楽で楽しみ、女官たちは蹴鞠やブランコで遊んだようです。私にとっての春分の思い出は、もっと素朴で静かなものです。曾祖父の家の庭に咲き始めた山桜を眺め、味噌汁の湯気に目を細める。蘇 東破の詩のような風雅さはなくとも、食事のひとときが、心を穏やかにしてくれたことを、幼いながらも覚えています。

     また、春分の日は、先祖の墓参りや亡くなった人を偲ぶ日でもあります。紀貫之の『土佐日記』では、彼が国司の任を終えて京へと帰る旅の様子が描かれていて、承平5年2月16日の最後の記述に、土佐で亡くした娘を偲ぶ記述があります。

    「思ひ出でぬ事なく思ひ戀しきがうちに、この家にて生れし女子のもろともに歸らねばいかがはかなしき。船人も皆こたかりてののしる。かかるうちに猶かなしきに堪へずして密に心知れる人といへりけるうた、

    うまれしもかへらぬものを我がやどに小松のあるを見るがかなしさ

    とぞいへる。猶あかずやあらむ、またかくなむ、

    見し人の松のちとせにみましかばとほくかなしきわかれせましや

    わすれがたくくちをしきことおほかれどえつくさず。とまれかくまれ疾くやりてむ。」

     紀貫之の娘を失った悲しみが、どれ程深かったのか窺い知れる内容です。

    余談ですが、紀貫之は明治37年に、特旨贈位により従二位に叙されています。(故木工権頭紀朝臣貫之位階追陞ノ件) 故木工権頭従四位下紀朝臣貫之特旨ヲ以テ位階追陞セラル 故従四位下紀朝臣貫之 贈従二位 右謹テ裁可ヲ仰ク 明治三十七年四月十五日 内閣総理大臣伯爵桂太郎 明治三十七年四月 故木工権頭従四位下紀貫之ハ歌道ノ衰頽ヲ憂歎シ勅旨ヲ奉シテ古今和歌集ヲ撰定シ遂ニ斯道ヲ振興シ作歌ノ準則ヲ後世ニ貽シ文化ヲ助ケ国風ヲ正ス其功績最偉ナリ本年ハ貫之カ古今和歌集ヲ奏上セシヨリ既ニ一千年ナリトス依テ此際其功績ヲ追賞セラレ贈位ノ栄典ヲ賜リ然ルヘシト認ム 御沙汰案 故木工権頭従四位下紀朝臣貫之 特旨ヲ以テ位階追陞セラル 故従四位下紀朝臣貫之 贈従二位 故従四位下紀貫之贈位追賞請願 恭惟フニ明治中興以来国家ニ功労アル者ハ大抵褒賞シテ遺ス所ナシ盖シ忠孝

     筆者の出身地、福岡に目を向けると、この地にも春分を祝う食の文化が根付いています。たとえば、福岡の「牡丹餅」は、春分の日に先祖を供養するための供え物として用いられる他、日常的に食べる習慣もあります。うどんチェーン(北九州発祥)の「資さんうどん」では、牡丹餅が普通にメニューにあります。小豆の赤色には魔除けの意味があり、祖先とのつながりを感じるひとときとなります。また、博多の郷土料理である「がめ煮」も、昔は春分の日に家族が集まり、互いの健康と幸せを願いながら食されることが多かったようです。

    ここで、「おはぎ」と「ぼたもち」の違いについても触れておきたいです。どちらも炊いたもち米に小豆餡をまとわせたものですが、季節によって名称が変わります。春分の頃に食べるものは「ぼたもち」、秋分の頃に食べるものは「おはぎ」と呼ばれます。これは、それぞれの季節に咲く花に由来しており、春には牡丹の花が咲き、秋には萩の花が咲くことから、その名がついたのだそうです。

     兼好法師の『徒然草』には、「花の盛りにあらずとも、春は春なり」という言葉があります。満開の桜だけが春ではなく、わずかに芽吹く草木、霞む景色にも春の気配があるのです。鴨長明の『方丈記』も、無常観を主題としつつも、春の訪れに安らぎを見出す記述が見られ、春分の日、長明は仮の庵に座し、野の草を摘みながら簡素な食事をとったことでしょう。

     春分の日には、「ぼたもち」を食べる習慣があります。これは『古事記』の五穀神話や『日本書紀』の祭祀とつながります。白楽天の詩に見られる茶、『土佐日記』の旅の食事、『徒然草』や『方丈記』の慎ましい暮らしの中の食事など、春分と食は古典の中でも密接な関係を持っています。

     春分の日に箸をとること。それは、自然の恵みに感謝し、春の訪れを味わうことに他なりません。今、目の前の膳に手を伸ばし、箸をとる。その先にあるのは、ただの食事ではなく、千年以上続く春の営みです。

     「箸とらば」も、今回で終わります。ですが、春分はまた巡る。たとえ言葉が途切れようとも、人が箸をとる限り、その営みは続いていくことでしょう。

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