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image3緑化技術参事の清藤城宏です。
久しぶりに日本森林学会大会に参加しております。
今年は藤沢市にある日本大学生物資源学部を会場に1000人を超す参加者、発表件数も1000件を超えたマンモス大会です。東日本大震災から5年経過した現在、海岸林の防災に関する報告は数件しかありませんでした。
今年の大会は、苗木に関係する報告が多くみられ、特に海岸林再生の苗コンテナ苗にかかわる問題を取り上げている報告が多く、私たちも全面的にコンテナ苗に切り替えて生産しておりますので、興味深く聞かせてもらいました。
結論的には従来の裸苗の植栽よりもコンテナ苗が有利であることが言われておりました。
苗木の形状も、私たちの育苗場では、根元径をできるだけ太くすることを心がけて苗づくりをしておりますが、
樹高成長に対し根本直径の比(形状比)が小さい方が良いとの報告があり、私たちの経験で実施してきている技術の有用性に意を強くしました。
来年はぜひ学会で我々のモニタリング調査結果も発表したいと思った次第です。

海岸林が暮らしを守る森林として育生され、保護されてきた歴史に関心をもち、調査・研究を進めています。
植林が開始された江戸時代の記録を読むうちに、実際の作業を体験しなければ歴史資料の理解は深まらない
という思いが募り、2013年4月からオイスカのボランティアに参加してきました。
苗場で床替えや除草、植栽場では下草刈りや排水のための畦切りを体験し、海岸という環境の厳しさを実感する一方、作業の一つひとつが、この地に恵み豊かな森をつくるために繰り返されてきた歴史的な営為であるという思いを深くします。
オイスカによる名取市の海岸林再生事業は、その仕組み自体が注目に値することは周知の通りです。
ひろく国内外からボランティアを募り、民間の資金援助をもとに失われた海岸林を取り戻そうという試みは、日本の海岸林の植林史に例のない画期的な取り組みであることは確かでしょう。
植林事業は達成後の維持・管理こそが重要な課題ですが、苗木を植え育てるという支援によって生まれた、名取の海岸林と県内外の人々との出合いが、海岸林を末長く守り続けるシステムに繋がることに大きな期待を抱きます。私自身もその縁のひろがりに連なりたいと思っています。
これまで主に仙台市で調査を進めてきましたが、名取市も対象に含めたいと考え、3月17日・18日の両日、
キックオフというべきヒアリング調査をオイスカ啓発普及部副部長の吉田俊通さん、このたびオイスカのアドバイザーとなられた小林省太さんとご一緒におこないました。
名取市の海岸林については江戸時代に作成された絵図などから、成り立ちや里浜の暮らしとの関係が知られます。さらに明治年間以降、震災前まで繰り返されてきた植林の目的や背景は、一様ではなく、北釜と閖上でも異なることがわかっています。
北釜には大正天皇の即位の礼と関わる大正5年建立の植樹記念碑
下増田小学校の学校植林日本一を記念する昭和27年建立の植樹記念碑
戦中戦後の台林地区の開墾と関わる昭和34年建立の愛林碑 があり、
記念碑の数だけでも特筆されますが、それぞれの石塔に刻まれた植林の経緯も興味深いものがあります。
ほかの時期も含めて、植林事業の記録は宮城県公文書館が所蔵する県庁文書のなかに膨大な帳簿が残っていることから、どの時期の植林史を掘り起こすことが重要であるのか、見当がつかずにいたのですが、再生の会の鈴木英二会長をはじめ、メンバーのみなさんのお話を伺い、さらに北釜に立てられた3つの石碑の現場(震災後、愛林碑を除き行方不明ですが)を見て回ることで、いちばんに取り組むべきは、愛林碑に刻まれた植林の歴史を詳細にたどることであろうと目標が定まりました。
県庁文書でその計画と経緯を詳しく確認できる上に、航空写真で進行の状況がわかり、さらに再生の会の桜井勝征さん、森清さんをはじめとして、ご自身や家族が植林に携わり記憶にとどめられた事業であることが決め手となりました。
北釜耕人会の桜井恵子さんから頂戴した『平成21年北釜写真アルバム』に、台林地区の開墾と植林の途上で撮影されたとみられる写真を発見しました。
北釜開墾耕地組合作業地写真(『平成21年北釜写真アルバム』)
北釜の関係者のほか、県の役人が大きく育った松林を背景に並んでいるこの写真も、多くの情報を読み取れる貴重な歴史資料です。アルバムに収められた、北釜の年中行事を写した写真の数々は、震災前まで受け継がれてきた集落の穏やかな暮らしの風景を伝えていて、魅入りました。松林に守られることで続いてきたであろう北釜の暮らしの伝統と、住民同士の繋がりにも関心を向け、調査を続けていきたいと考えています。

(東北学院大学 文学部教授 菊池慶子)

大阪マラソン ランナー募集

2016年3月31日( カテゴリー: 本部発 )

こんにちは。浅野です。
3月18日(金)に大阪へ出張してきました。
目的は大阪マラソン寄付先団体への説明会の参加。
おかげさまで3年連続寄付先団体に選んでいただき、今年も
チャリティランナーの皆さんと大阪マラソンに参加することができます。
せっかく大阪まで行くのだから…ということで
UAゼンセン大阪府支部とミズノユニオンを訪問してきました。
プロジェクトの進捗報告・大阪マラソンチャリティランナー募集についてなどの
話をさせていただきました。お忙しい中、お時間をいただきありがとうございました。
そのあと説明会へ行ったのですが、今回は14団体中5団体が新規団体。
オイスカと同じ緑ブースも去年までとは違う団体です。
選んでいただいたのだから、まずランナーを集めることからしっかりやらなければ!と
気持ちを新たにしました。
ということで、走っていただける方・興味のある方がいましたらご連絡ください!
ランナーのエントリー開始は4月8日(金)10:00です。
詳細はこちら → http://www.osaka-marathon.com/2016/runner/entry/apply_c/
今年はプロジェクト責任者 吉田が走ります!
ぜひ、一緒に走って大阪マラソンを盛り上げましょう!!
※3/29(火)14:00に公募に関する情報がHPなどでアップ、ということで
出張報告が遅くなってしまいましたが、これからも出張したら報告させてもらいます。
(ブログに慣れていなくて、ついつい後回しにしてよく注意されるんです…)

異動

2016年3月30日( カテゴリー: 現場レポート )

東京本部の机の引き出しには、震災以降に交わした名刺3,000枚がビッシリ入っている。
使ったら手前に入れるので、手前ほど接触頻度が高いと言える。
その名刺を文字通り擦り切れんばかり使わせていただいた人が、異動になりご挨拶に伺った。
あらためて聞いてみたら、その方の仙台着任と、私が震災後初めて仙台に行ったのとは、
まったく同時期の2011年5月。
お互い組織を代表し、現場最前線で相対するということは、技術面から、組織運営面まで
打ち合わせのカバーエリアは極めて広い。浅く広くではなく、深く広く、どんな話でもできることを
お互いに求める。技術屋が軽んじられる昨今、技術の話になれば止まらない人が窓口であることは、
我々にとって最高に幸せなことだった。いつも会っているのに、今日も、あっという間の1時間半。
「オイスカさんは大丈夫だから」。2014年の整備協定締結前1年ぐらいは会うたび、話すたび、
そう言われた。「俺が責任もつから、一切心配するな」と言われているようにいつも感じた。
このプロジェクトが無事進んでいくように俺が守って見せると言っているように聞こえた。
プロジェクトの本質、どういう仕事でありたいか、大事なことは何か、一番深く理解してくれていた
一人だった。
「すぐまた来ますよ」と言ってくれた。
写真展や、シンポジウムには、いつも私服で来てくれた。
私にとっては「兄貴分」でもあり、「戦友」の様に思っていた。
とても残念だけど、私服でも会える人がまた一人増えたと思うことにしよう。
この方の他にも、風の噂が伝わってきた幾人もの、とてもお世話になってきた方に一言ご挨拶に伺う、
毎年恒例の宮城出張だった。

今年はここで頑張ります。いい現場に仕上がってました。

今年はここで頑張ります。いい現場に仕上がってました

これから3年は、皆さんとともに、広浦の入り江を見ながらの作業が 加わります。

これから3年は、皆さんとともに、
広浦の入り江を見ながらの作業が加わります

アドバイザーの小林です。
関東の背開き、関西の腹開き、といえばウナギですが、ぶつ切りとははじめて聞きました。
先日、宮城県名取市で地元の方に昔の生活を聞いていた時に出た話です。
「昭和40年代くらいまで広浦では天然のウナギがずいぶん取れた」と言って、
その太さを親指と中指で輪をつくって示してから、料理法の説明です。
料理法といってもぶつ切りだから難しいことはありません。ウナギと、あとはあれこれ野菜を入れ、
寒天で煮て煮凝りのようになったものをおかずにしてご飯を食べる、という話です。
広浦は海水と淡水が混じる汽水域で魚が豊富にとれたということですが、
幼い頃食べたおいしいものを振り返るとき、人は活き活きとしてくるものですね。

ちなみに 2016年『土用丑の日』は 7月30日(土)です

ちなみに 2016年『土用丑の日』は 7月30日(土)です

4月からアドバイザーの立場で海岸林再生事業を中心にOISCAのお手伝いをさせていただくことになった
小林省太と申します。日本経済新聞の論説委員をしておりました。
今後、折に触れ、気づいたことなどを書いていきます。よろしくお願いします。
すでに宮城県名取市の海岸林植林の現場も何度か訪ねていますが、先日は菊池慶子・東北学院大学教授と
地元の方々から昔の生活や、生活と松林の関係などを聞きました。
すでにブログでも紹介されているとおりです。
その調査の前に読んで頭に入れておいたのが、
菊池教授が書いた「仙台藩の海岸林と村の暮らし–クロマツを植えて災害に備える」です。
70ページほどの小冊子ですが、仙台藩のクロマツ植林の歴史と、松林と生活のかかわりが
コンパクトに分かりやすくまとめられています。
この本を少し紹介しましょう。

ぜひ皆さんも読んでみてください

ぜひ皆さんも読んでみてください


菊池教授の専門は近世(江戸時代)で、宮城県公文書館などに眠っている史料から海岸林の植林に関するものを
丹念に探し出しているのが研究の特徴です。
宮城県の松林というと「伊達政宗の号令一下」のイメージがあったのですが、この本によれば、
植林が始まったのは政宗の時代を下ること約半世紀、17世紀半ばの1650年ごろからということです。
1700年ぐらいには立派な松林になっていたわけで、2011年にあらかた流されてしまった海岸林は、
長いもので350年ほどの歴史を持っていたことになります。
海岸にクロマツを植林する手間、技術的な難しさは今も同じでしょうが、
江戸時代にはもっと大変だったということは想像に難くありません。巨額の費用もかかりました。
藩はもちろんですが、有力な藩士や豪商、あるいは村民自らも費用を負担して松林をつくり、
守っていた様子が本に描かれています。そうまでしたのには、もちろん理由があります。
本には松林ができるまえの1611年(慶長16年)、「慶長奥州地震津波」で仙台藩の領内に1783人の死者が
出たことが記されていますが、こうした大災害を経てクロマツの植林が進められていったわけです。
海岸林には、津波はもちろんですが高潮や風、砂、霧などから、後背にある住まいや田畑を守る役割があります。
戦後まで、松葉や枝、梢は燃料として使われ、松林はきのことりの場でもありました。
「里山」の機能を果たしていたわけです。それだけではありません。
「魚つき林」という言葉があるそうですが、魚の生育のためよい環境を生み出す、そんな林を言うようです。
マツの枝葉が海で腐食してプランクトンを育む、林に生息する昆虫が海に落ちで餌になる、
樹影が魚に好ましい暗がりをつくる・・・松林のそんな効果が本には指摘されています。
さらに、飢饉のときにはクロマツの皮を剥いで砕き、米や大豆の粉にまぜて「松皮餅」という食料にしましたし、
外国船が日本周辺に現れた幕末には、海岸林の海防施設としての役割が注目されたとの記述もあります。
東日本大震災で失われた松林の再生は、海岸林が歩んできた長い歴史につらなる試みだということが、
本を読むとよく分かります。4月にはOISCAの現場でも3年目の植栽が始まります。
海岸林の維持には、ボランティアの方々の力も欠かせません。
ぜひ現場にも足を運んで頂きたいのですが、この本を読んでから来ていただければ、
草取り一つでも持つ意味が違ってくる、そんな本だと思います。
すでにブログでも紹介されていますが、本書は仙台市の蕃書房発行、800円(税別)です。
詳細・購入手続きはコチラ(蕃山房HP)

もう1ヵ月、まともな雨が降っていない。
佐々木統括とは今日もこの話になった。

2014年植樹祭植栽地

2014年植樹祭植栽地


2015年植樹祭植栽地

2015年植樹祭植栽地


海岸林の現場でも、10㎜以上降らないと、苗床でも植栽現場では降ったうちに入らない。
表面が湿るだけで根には届かない。
昨年も一昨年も、3月だけで150mm以上降っているのに、今年3月はたったの5.5mm。
その中でも、クロマツは何とか頑張っています。
再生の会の森幸一さんは、「苗の色が濃い緑色に変わってきた」と言っていた。
植栽現場で心配しているのは、昨年の秋植え苗。
ですが、この乾燥状態でも大善戦。
枯死率は1%程度のまま、推移しているように見えた。
今日も全体を駆け足で見てきたが、特に異常なし。
今日の再生の会は14人勤務。ひたすらコンテナの土詰め。
第2育苗場からも毎日1人が交互で来てくれる。
うち3人は、種苗組合の総会に出席。
昨年は4月前半は大雨続き。根腐れを心配した。
来月の予報は、日替わり、不安定とニュースで言っていた。
今年も4月20日頃から植栽を開始予定。

報告が遅れましたが、今年も3月11日、全国経済同友会の視察団にプロジェクトを視察
いただきました。小林喜光代表幹事ほか72名。毎年のことながら、やはり緊張します。
今年は、岡本全勝(おかもとまさかつ)復興庁事務次官を筆頭に同庁幹部5名も含まれ。
初めての復興庁の方とのコンタクトが、いきなり事務次官とは…
次官が来られると聞いたのは3日前。視察ルートも変更し閖上を通り、かさ上げ住宅などを
車中から視察することになりましたが、別に困惑するようなことではなく、「年に一度の機会、
オイスカの海岸林の視察を通じて、関連する方たち全体が良ければよい」と毎年思っています。
至急、ゲートを管理する各建設会社との調整、当局への情報シェア、ルート実踏を行いました。
こういう時、普段の各セクターとのチームワーク、信頼関係がありがたい。
林野庁は仙台森林管理署の小澤署長、海岸林復旧室の村上室長が、名取市は佐々木市長、
石塚副市長、復興部、生活経済部の幹部が当日対応に乗り出してくださることに。
宮城県庁は議会中。「国も市も来て県の代弁もするので、ご安心を」と。

佐々木市長はこれより3日連続で海岸林の行事に。

佐々木市長はこれより3日連続で海岸林の行事に


朝8時にバスに同乗し説明しながら出発。順調に名取入りし、5叉路を曲がり閖上に入った。
あれ、やられた!道が変わってる。この前までの大通りがない…
迷路に入ってしまったように思いました。
工事の都合で道は変わります。昨日まであった道が突然通れなくなるのです。
ここだけは下見しなかった(笑)でも、港の方の遠くのダンプの動きが見えて、
土手沿いの道に出ればイイと閃き。でも、1分ぐらい時計が止まりました。
そういうときも、岡本事務次官が自らマイクをもって説明を続けてくださって。
肝心のプロジェクトの説明はオイスカがするのですが、今回は圧巻でした。
当局とは合流場所と時間を決めていただけ。打ち合わせは一切なし。挨拶だけと。
しかし、市長、仙台署はともに、オイスカでは決してできない「挨拶」をして下さいました。
一瞬、込み上げてきそうになりました。私は何も説明することがなくなりました。
これが僕らの5年間の象徴でした。
ご一行は車中でも現場でも質問が多くてリズムをつけやすく、あっという間でした。
小林代表幹事からは直接、温かい評価をいただき、あらためて時間をいただくことに。
岡野常務理事からは「今年も東京で報告会をやろう。将来ビジョンの調査も引き続き応援したい」
事務方中核のHさんからは「僕も調査に加わってみたい」と。←「行け!行け!」(常務)
矢継ぎ早に質問が寄せられるのは、ありがたいことでした。

矢継ぎ早に質問が寄せられるのは、ありがたいことでした


今年も3.11は名取で迎えました。毎年、怒涛のようなスケジュールですが。
風もなく、穏やかな日の視察で良かった。

昭和27年 全国学校緑化コンクール 準特選
昭和28年  同          特選
戦争の荒廃から国土を復活すべく、国土緑化推進機構が昭和25年から開始した、
国土緑化運動の一環で、学校林活動も盛んにおこなわれるようになりました。
そのコンクールで全国優勝したのが、名取市海岸林再生の会のメンバー全員が通った
下増田小学校。しかし、なにせ子供の頃の話。学校植林と言う言葉はみんな知っているんだが。

写真右下が通称「学校植林碑」。正面1km先に第1育苗場。100m流されて倒れていた石碑を誰かが起こした。にもかかわらず、ある日 消えた。復旧工事関係者に聞けばどこかにあるはず。

写真右下が通称「学校植林碑」。正面1km先に第1育苗場。100m流されて倒れていた石碑を誰かが起こした。にもかかわらず
ある日 消えた。復旧工事関係者に聞けばどこかにあるはず


地元でいう通称「学校植林」に関し、私がこれまで聴いてきたみなさんの話を総合すると…
空港北側の北原東地区、鈴木堀に沿った(現在は地盤沈下し海抜ゼロm地帯)水田の中に、
約300m弱四方の造林を行った。樹高5m、細かった。10年生ぐらいだったのではないか。
南北に幅3mほどの水路、切り上げた土で幅5m程の松林。南北に何重列もバーコードの様に
なっていた。切り上げた土は水面から60cmぐらいの高さで、落っこちて登れなかった。
水路には魚もいた。特選を取ったので全国植樹祭(宮城県大衡村)に代表が参加した。
その後、いつだかわからないけど、全部伐ってしまった。
吉田:「相当手がかかる造林地。そもそもの目的がよく分からない・・・(笑)」
内陸防風林というより、手っ取り早く、足場丸太か、薪が欲しかった?
碑文タイトルは「国土緑化」

碑文タイトルは「国土緑化」

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戦後、私は上海から引き揚げてきた引揚者。
だから集落は閉鎖的に見えた。
戦争の混乱により、私自身も数奇な運命をたどった。
名前も3度変わり、鈴木家に入り。
増田中学校の科学の教員に奉職した。お礼の意味を込めて9年勤めた。
昭和30年、仙台空港が開校した際、今の会社を(三英駐車場)
父と共に興した。
北釜集落は約100世帯。半農半漁。
小さい舩も持っていている家が多かった。
ちょうど今の時期、春はホッキ貝の貝殻がどの家にもあった。
この頃はまだ非常に貧しく、電気がない家もあったし、ドアが
ムシロの家もあった。子どもの多い集落だった。
北釜にも、隣の相野釜(岩沼市)にも分校があった。
空港ができる前はみんな、今の空港内に畑を持っていた。
北釜橋ができたのは大正。それまでは船で渡っていたと聞いていた。
水田は耕谷集落の小作人だった。そこへ行くことを「ダンポさんに行く」と言った。
松林に入ることを「御林(おはやし)に入る」と言った。
毎年冬、数日間かけて、「北釜海岸林保護組合」の組合員約80戸総出で「松葉さらい」をした。
熊手で松葉をまとめたものを「マルキ」と呼んで、燃料にしていた。
海岸林保護組合は5年前の津波で解散した。
空港拡張に伴い、代替地として松林の国有林70haが払い下げられた。
その農地をパイロットプロジェクトと読んだ。
日中国交回復で、角栄さんがチンゲン菜を日本に持ち込んだ。
北釜の砂地はチンゲン菜がぴったりだった。
一気に北釜の農業は飛躍した。

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