名取市の海岸林史聞き取り調査 鈴木英二 再生の会 会長 (要旨)
2016年3月24日( カテゴリー: 名取市海岸林の歴史 )
戦後、私は上海から引き揚げてきた引揚者。
だから集落は閉鎖的に見えた。
戦争の混乱により、私自身も数奇な運命をたどった。
名前も3度変わり、鈴木家に入り。
増田中学校の科学の教員に奉職した。お礼の意味を込めて9年勤めた。
昭和30年、仙台空港が開校した際、今の会社を(三英駐車場)
父と共に興した。
北釜集落は約100世帯。半農半漁。
小さい舩も持っていている家が多かった。
ちょうど今の時期、春はホッキ貝の貝殻がどの家にもあった。
この頃はまだ非常に貧しく、電気がない家もあったし、ドアが
ムシロの家もあった。子どもの多い集落だった。
北釜にも、隣の相野釜(岩沼市)にも分校があった。
空港ができる前はみんな、今の空港内に畑を持っていた。
北釜橋ができたのは大正。それまでは船で渡っていたと聞いていた。
水田は耕谷集落の小作人だった。そこへ行くことを「ダンポさんに行く」と言った。
松林に入ることを「御林(おはやし)に入る」と言った。
毎年冬、数日間かけて、「北釜海岸林保護組合」の組合員約80戸総出で「松葉さらい」をした。
熊手で松葉をまとめたものを「マルキ」と呼んで、燃料にしていた。
海岸林保護組合は5年前の津波で解散した。
空港拡張に伴い、代替地として松林の国有林70haが払い下げられた。
その農地をパイロットプロジェクトと読んだ。
日中国交回復で、角栄さんがチンゲン菜を日本に持ち込んだ。
北釜の砂地はチンゲン菜がぴったりだった。
一気に北釜の農業は飛躍した。