「俺たちの林業労働者の生き様を、社会に伝えてほしい」
神奈川の林業会社を退職し、オイスカに戻る時、
そして戻った後の社長からのメッセージ。
「たとえペットボトル一本でも、現場の地元で買いなさい」
「川上(山側・現場側)と川下(都会側・支援者側)の
どちらかを優先しなければならない時は、迷わず川上を選択してほしい」
これはオイスカの元上司。
振り返れば、まさに「ご縁」という以外の例えは見当たらない出会いが震災1年前にあり、
先のような気持ちを持って、宮城中央森林組合との深い付き合いが始まりました。
2010年1月、オイスカ宮城県支部小野喜代寿事務局長の紹介で、
仙台市立三条中学校の学校林を 佐々木勝義さん(佐々木廣一名取事務所統括の弟)
とともに雪降る中を実踏。
その場で強烈に意気投合。
まず、松島町立第5小学校(童謡「どんぐりころころ」の作詞家の母校)の
学校林整備をともにし、「学校林・遊々の森」全国こどもサミット」in東北での
同校の発表をしました。
2人で一緒に秋田から帰り、山に入って天然秋田杉をとくと拝見したり。
飲み二ケーションに明け暮れたり。

110524~26(吉田撮影) 199

「クロマツは根が浅いのではない。地下水位が高いところに盛土なしで植えられたから、3m以上になる深根性が発揮されず、このようになった」このように話した勝義さん(2011年5月25日 於:東松島市野蒜)


震災直後、林野庁東北森林管理局の知人とも、海岸林再生に関して電話のやり取りをしましたが、 松島町に住む佐々木勝義さんと全く連絡が取れなくなり、週明け数日後、ようやく連絡が取れたことを思い出します。
そして5月24日、国・県・森林組合・種苗組合との初協議、 名取第2中学校での地元農家の方たちとの初協議、 26日までの初めての陸上踏査、 26日の佐々木廣一名取事務所統括との初めての出会い、 その一切を、佐々木勝義さんとともにしました。
2011年の震災により、県森林環境税の凍結などにより、 あとわずかで整備完了のところ森林業務が停止してしまい、 くわえて文化庁からの整備許可期限が迫っていた 松島の4大観の富山整備と、仙台市立三条中学校学校林整備を、
三菱UFJニコスさんと、三井ガーデンホテルズさんのご理解により、整備を継続できました。
この山は僕にとって一息入れる場所でもあります。整備後の推移を楽しみに観に行っています。
「うちの兄貴を説得するべ!」
また、佐々木廣一さんのオイスカ入りを必勝を期して、
半年かけてじっくり根回ししてもらい、
パートナーとなる私自身とオイスカを知ってもらうべく、
ダミーとして僕の息子と娘を連れて泊りに行ったり。
まさに全ての行動を、宮城中央森林組合と行動してきました。
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毎朝7時半、今日植える苗木の積み込みに立ち会う秀義君
(2014年5月20日於:オイスカ第一育苗場)


そして今、勝義さんの息子さんである秀義さんが、海岸林再生プロジェクトの植栽現場を切り盛りしています。
震災前、彼が東京農大の学生の時、オイスカへの就職も視野にあり、東京本部に来たので
「やめたほうがイイ。森林組合がイイ」と言った記憶も。
彼がまだ前職にいるとき、飲みながら、森林組合の社会における存在意義を話し、
「宮中(宮城中央森林組合)に入ってくれ。そして俺と一緒に海岸林をやろう。こんなに大きな仕事はないぞ」 と言った記憶も私にはあります。
そして今、描いたイメージ通り、森林組合と種苗組合、
名取市海岸林再生の会、国・県・市、そして支援者との仕事に至りました。
育苗を担う名取市海岸林再生の会と、植栽を担う森林組合は、当プロジェクトの両輪。
かつての上司や林業会社の社長の教え通り、森林組合を通じて、川上(被災地の復興)にお返しし、 林業労働者の人間臭さやプロの凄味をお伝えしたいと思います。

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