海外事業部の萬代です。
今年3月から、日本NGO連携支援無償資金協力で、フィリピンでの「養蚕普及、拡大による伝統文化の復興、発展及び地域住民の生活向上支援事業」がスタートしました。
事業の一環として、日本の蚕糸業の歴史的背景や知識や技術を学ぶ研修のため、フィリピンベンゲット州、ヌエバビスカヤ州、東ミサミス州の政府機関で蚕糸関係に携わる6人が9月1日に来日しました。
私はオイスカで養蚕に29年間携わり、ネグロス島のバゴで始めた養蚕が地域の人々に受け入れられ、養蚕に携わる農家数も徐々に増しながら、今は、生糸の生産量が国内全体の9割を占めるようになるまでをずっと伴走してきました。29年間は、順調な時ばかりではありませんでした。蚕の病気が続いたことで、一時、立て続けに農家が養蚕をやめていった時もありました。そのたびに、日本の養蚕専門家の宮澤津多登先生(長野県松本市)のご指導や、山梨県の養蚕農家の芦澤定弘さんに助けられ、事業を立て直してここまで辿り着いた気がします。
私を含めネグロス島の養蚕に携わっている人たちには、大きな目標があります。
ここまで根付いたネグロス島での養蚕をフィリピン全土に拡げ、国の産業として根付かせることです。
もちろん、フィリピンでは織物が盛んにおこなわれていますので、政府としても経糸に使う生糸を中国やベトナムからの輸入に頼らず、自国で生産したいと考え、農業省や科学技術省が普及に取り組んできてはいます。
しかし、養蚕は気候も影響しますので、全国どこでもというわけにはいきません。今回の研修のために来日した関係者の3州は以前から養蚕が行われていた地域でもあり、政府としても特に普及に力を入れている州です。養蚕は簡易な蚕小屋と桑畑の確保のみで始められるため、貧しい農家にとってもやり易く家族で行えます。また蚕の扱いは女性が適していることから家庭内では収入を得る重要な役割を担うこともあって、農村社会では歓迎されています。他の国に出稼ぎに行かずとも、ふるさとで家族一緒に生活することができるところは理想的だと考えています。
今回の研修では主に、蚕糸科学技術研究所(茨城県)、富岡製糸場(群馬県)、アシザワ養蚕(山梨県)を訪問しました。
私が最も印象に残ったのは、アシザワ養蚕の訪問でした。25年前から毎年、10カ月間の養蚕研修コースの研修生を受け入れてくださっていました。現在は研修生の受入れはしていただいていませんが、これまで約30人がアシザワ養蚕でお世話になりました。バゴ研修センターで第一人者として活躍するジンジさんも芦澤養蚕で研修したひとりです。久しぶりに芦澤さんにお電話したところ、快く今回の研修を受け入れてくださいました。伺ったところ、30代の息子さんが後を継ぎ、代替わりしていたのには驚きました。日本の養蚕農家は激減し、かつては全国に221万戸(昭和4年)もあったのが、現在は163戸(令和4)までになっています。このような状況の中、息子さんが後継者となったことに喜びと光を感じました。
説明をしてくれた6代目の息子さんの芦澤洋平さんによると、「生糸を生産するための繭」という固定概念にとらわれず、お蚕さんの食品会社への販売、繭の化粧品会社への販売など、かつての、キロいくらという繭の生産だけではなく、多方面への販売の可能性に挑戦しているといいます。私自身、目からうろこが落ちる思いがしました。今回の研修員も同様だったようで、蚕糸業の可能性を広げるとてもいい事例だと話していました。アシザワ養蚕には、私たちの他にも続いて2組の見学者がいました。日本の養蚕の希望を見た思いです。
研修の最終日には、駐日フィリピン大使館を訪れ、ミレーン・ガルシア・アルバーノ大使と面会し、研修の報告に対し、大使から自国の蚕糸業の実情やこれからの蚕糸業発展の可能性など、多くの質問をいただき、活発な意見交換がなされました。私自身、養蚕業への関心の高さを窺い知る機会ともなりました。
今回の研修最後の反省会で殆んどの参加者から、「実際に日本の蚕糸業の現場を見ることが出来て、新たな希望が湧いてきた」という言葉を聞き、強く勇気づけられました。将来フィリピン産の繭や生糸が世界に輸出される日が来ることを夢見て、日々、積み重ねていきます。