こんにちは。四国支部の池田です。
生来遅筆なので失礼しましたが、諸々の圧にメゲず第三弾を投稿しますので、
ご一読願います。
この度の肥国巡りで訪ねたかった場所の一つは天草地域。
少々ハードスケジュールでしたが、天草パールライン1号橋を渡り江戸時代の
キリシタン一揆として有名な「島原の乱」を率いたと云われる天草四郎の像が建つ
上天草市天草四郎メモリアルホールへ。
10代半ばにして37,000人余の一揆軍の総大将となったカリスマ!
銅像とはいえ威風堂々としており気品を感じました!!
そして次に訪ねたのが隣の天草市苓北町にある富岡城。
なぜ、この城を目指したかと言うと…。
苓北町歴史資料館「富岡城跡」案内に記されている田嶋章二町長の紹介文
(平成27年7月29日)「天草・島原の乱の一揆勢が富岡城を占領して、
富岡の地で乱が長期化していたら、その後は、どうなっていたでしょう。
富岡は外洋に面しており、中世以来、数多くの外国船が出入りし、
宣教師達も上陸しました。外国に開いた富岡での乱の長期化は、
対外的にも大きなマイナスです。国内政治の乱れを感じとった諸外国の列強が、
乱に乗じて日本に攻め込んだかもしれません。
富岡城が、天草四郎を総大将とする約1万2千人の一揆勢の攻撃に耐えたことで、
戦いの舞台は島原の原城に移りました。(中略)富岡城での攻防は、
日本の歴史のうえで、非常に重要な出来事でした。
乱の鎮圧後、徳川政権は安定化へ向かいました。この長期安定政権の中で、
日本人の美徳である質素・倹約・勤勉性が養われたといわれています。(中略)
もし、あの時、富岡城が落城していたら、徳川政権の安定も成立せず、ひいては
今日のような日本は形成されなかったというのが、私の持論です。」に惹かれて
富岡城を訪ねると、確かに外国船が近付き易い場所でした!!