本部・啓発普及部の吉田です。
池田廣志さんがお亡くなりになりました。
40年間、フィリピン・ミンダナオ島でオイスカマンとして従事されました。享年74歳です。 オイスカの海外開発団員の屈指の方でした。 1980年にアジア全域でオイスカあげての植林に挑もうと、事実上、先陣を切った方です。
私が初めてお目にかかったのは20年前のことになります。 フィリピン・ミンダナオ島に、西日本銀行人事課長の仕事を投げ打ち、 オイスカに惚れて飛び込んだと聞いていました。
私が新人の頃、大学上がりの生意気な私などに、気軽に声をかけていただき いつも気合いを入れてくださいました。 新人の頃、私は何もわからないので、聞きたいことがあれば、誰かれ、いつ何時構わず、 場所構わず、聞きたいことを、聞きに行っていました。 寝ているのも構わずノックして。そういう寝床にいらしたこともありました。
1990年代、私が、いつも企業回りしていたとき、必ず持参したA3版×4枚ほどの大きなオイスカ地図の表紙は、若い衆とともに植えて大きくなった木の下で「どんなもんだ」と言わんばかりの池田さんの写真でした。(写真左)
今、その大禿山地帯は、見渡す限りの鬱蒼とした大森林になっていると聞いています。(写真↓) ご自身を中心にあの禿山地帯に、一番乗りで乗り込み、農業技術指導を行い、 その上で植林を唱え、木が育ち、人が戻り、「オイスカ村」と呼ばれるようになりました。
私が名取での「海岸林再生プロジェクト」に取りかかり始めたころ、 帰国された池田さんが「俺が最初にフィリピンに行った頃、大津波が来て、 遺体の回収をひたすらやった。辛かった。」とおっしゃいました。 僕がオイスカ奉職を決めた本でもある、直木賞「炎熱商人」(深田裕介著、文春文庫) の舞台になったころ、その場所でもあります。 以来、何度も何度も激励されました。時にフィリピンからFAXで。 「お前の肩にかかってる」と何度言われ、恥ずかしくないように頑張ろうと思いました。
今、オイスカ本部では毎夜火が灯され、食事も用意されて20日が経ちます。 時々お昼に、池田さんのごはんのおさがりをいただきます。 さっきも一緒に飲んできました。「どんなに熱意と意見があっても、誰が何か言っても、 怒ることもなく受け止めていた」という話を、遺影の前で同僚としてました。 世界で仕事する人と自分との違いだと思いました。
池田さんの息子とは、バカ丸出しで付き合った仲。 彼の女房も元の同僚。フィリピンでの大葬儀、故郷の九州での、来月末の偲ぶ会。 落ち着いたら、totoと由香、同僚を交えて、餃子でも食べながらゆっくり偲ぶ会をやりたいです。 仲間の菅君とは二人で仙台でも偲ぶ会をしました。
幾人もの人を日比以外にも残し。尊敬と感謝に耐えません。 人を残す人生をやり切った方だと心から思います。
心からご冥福をお祈りするとともに、足元にも及ばぬながら 先輩に負けてたまるかと思っています。