2019年3月29日

平成最後の大仕事

  • 本部スタッフ
  • 広報室の林です。

    2018年度が終わるタイミングで、中野利弘顧問に
    月刊「OISCA」用の原稿をお願いしました。

    平成が終わるのを前に、時代は変わっても変わらないこと、
    変えてはならないこと、あるいは変わっていかなければならないことなど
    大正、昭和、平成の3つの時代を生きてきた大先輩として、ご自身の人生と
    オイスカのあゆみとを重ね合わせながら振り返り、これからの時代を生きる
    若い人へのメッセージをいただけないかと。

    忙しい合間を縫って(つい先日まで香港、ベトナムに出張していました)
    仕上げてくださった原稿に合う写真を探そうと、
    オイスカの草創期からの写真を見ていると、
    顧問の原稿に書かれていることが
    しみじみとその通りだなぁ~と感じられます。
    しっかり伝わる記事にまとめられるかなぁ……?

    さて、そんな作業の中で、1962年の写真の中から
    時代を感じるものをいくつか選んでご紹介します!

    第3回 (343)
    第3回 (347)

    こちらは国際会議の後、参加者が「産業視察観光団」として
    日本各地を視察して歩いた時のもの。
    各地の企業を訪問したり、工場見学をしたり。
    創立者は、戦後の日本がどのように復興していくのか、
    その過程を見せたいと考えていたそうです。

    PICT1172

    この写真の建物には「秋田旅館組合」とあります。

    私が注目したのは一行を迎える人の多さ。
    日本政府観光局のデータによると2019年2月の
    訪日外国人数(推計)は約530万人。
    それに比べて、当時(データは1964年のもの)の
    訪日外国人数は35万人。今とは比べ物になりません。

    外国人がめずらしかったのだろうと思うのは、
    丘の上や建物の窓の外側にまで人がいること。

    PICT1174

    もしかしたら向こう(右端)に見える歩道橋?
    の上の人たちも一行を一目見ようと
    集まった人たちなのではないかと思ってみたり。

    バスに乗り込んだ一行を見送る人たちも、握手を求めて
    バスに群がっています。超人気スポーツ選手のファンたちのよう。

    PICT0998

    PICT1255

    白バイ?に先導されての大パレードも各地で行われたようです。

    恐らく初めて接するであろう外国人に、自分のノートを渡して
    サインを書いてもらっている中学生の写真などもあり、
    すでに70歳を迎えているであろう当時の中学生たちが
    その時のことを覚えているのか聞いてみたくなりました。

    駅のホームがこんなに外国人でいっぱいになることは
    当時はめずらしかっただろうなぁと思います。

    「彼らを乗せる汽車賃にも苦労した」

    PICT0585

    そんな話を中野顧問から何度も聞いています。

    この写真のすぐあと、同行しているスタッフが車内で
    爆睡している写真がありました。

    「会議の前には徹夜で資料を準備したのよ。
    あの頃は、パソコンなんてなくて、全部英文タイプだった」

    そんな話も大先輩から聞いたことがありました。
    会議が終わったら、こんなにたくさんの外国人を連れて
    全国をめぐる視察に行くのだから、電車での爆睡も納得です。

    オイスカが誕生したばかりの頃の写真からは、
    どんどん成長していく、パワーにあふれた空気を感じます。
    それは、日本全体がそうだったのだろうと思います。

    こうしてオイスカ活動を60年近く重ねてきた中野顧問の言葉。
    しっかり伝わるものにしなければ……というプレッシャーを感じつつ、
    新元号が始まる月の月刊誌にふさわしいものになるように、
    平成最後の大仕事は年度をまたいで続いていきます。

     

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