海岸林再生プロジェクト担当の吉田です。
先月、東京都立恩賜上野動物園から電話。
「(タイから寄贈されたアジアゾウの)アティ・ウタイに赤ちゃんができました。
生まれるのは来年6月か7月ですが、早く見に来ていただきたい」と。
幾度となく通い詰めた上野。本当にうれしいお知らせでした。
また、ゾウの繁殖はとても難しいのです。
その直前、悲しい出来事があった。
オイスカをタイに招致し、40年にわたりタイ全土すべての活動を担った、
タイ総局事務局長の見原アイサさんが、8月3日に病気で急逝された。
「バンコクは雨です」と、憔悴しきった表情で葬儀を迎えた現地関係者の写真がメールで届いた。
タイ東北部・スリン県に、「(鳥も来ないような荒野を見て)お坊さんが涙を流した」という名の村がある。
1974年に国際会議で訪れたオイスカの一行を、即その場で車で8時間近くかかるスリン県まで案内。オイスカも即応し、翌年から農業技術指導を開始。1980年からは植林プロジェクトを県内各地で継続。最初に植えたのはその「涙」の村。だが、植栽後9割が枯死。
しかし、現地の受け止めは日本人の反応とはまったく違った。「1割生きていることは凄いこと」。 1985年以降、王室が中心となったキャンペーン「東北タイに緑を」のきっかけになったという。水害・滞水は毎年のこと。乾けば固く土が締まり、ドリルで植付穴を掘ったそうだ。
私がタイに関わるようになった1999年も継続。
私はそのすべての場所を調査。面積にして300ha以上。
あの村は、立派な森が残るともに、一等米の産地となっていた。
植林開始から20年。
8代目となるスリン県知事が、「愛子さまのご生誕と20年にわたる緑化協力に感謝してゾウを寄贈したい」という信じられないことを口にするようになった。
2002年1月4日、本当に記者会見で表明。まだ正月休みのオイスカ本部には取材が殺到。ワシントン保護条約などまるでわからない我々は退くことができない渦中におかれ、日タイ両国当局を巻き込む丸1年の苦労の末、上野動物園に無事寄贈と相成った。
「貴方たちは私の子ども」。
そう言われてきたたくさんの中年世代が日タイの現場を担っている。
無数の日本人も、タイで一生で二度と味わえない作業を体験をした。 ゾウの故郷での緑化だけでも、把握している限り20年で1,200人以上が作業に加わった。見原アイサさんの行動がなければ、いまも荒野のままだったかもしれない。
いま私は、宮城にいても、アイサさんをを仰ぎ見る。
命懸けの仕事は人づくりだけでなく、仕上げはゾウまで生むものなのかと。
アイサさんは、技術者の見原隆明さんと国際結婚。 豪傑の一言に尽きる、宮崎県諸塚村に住む林業技術者としても超一流のご主人に電話した。
「赤ちゃんの名前はアイサだと勝手に思っています。
まず宮崎で、次はいつかタイで、追悼活動報告会をさせていただきたい」。
「いつ電話が来るかと待っていた。三日三晩でも飲もう」。
ご主人をはじめ関係者一同、ゾウの赤ちゃんはアイサさんの生まれ変わりだと思うのです。