吉田です。Global Sustainability Mission(GSM)と、
宮城の海岸林復旧の現場を預かっております。
「GSM」という4月に新しく出来た部署の仕事は、広報と資金獲得です。
緊急募金の目標は500万円ですが、私は1,000万円以上のつもりです。
多くの方のご理解で、開始からわずか数日で60万円を超えています。
本部で作戦会議をする中で、「ミャンマーとの思い出を職員で書こう」と
つい先程決まり、同期の林広報室長から「まずは」と指名されました。
「海岸林再生の第1次10年を乗り切るまで、海外には行かない」と決めましたが、
首尾よく3年前倒し出来ましたので、タイ・フィリピン北部、
そして2020年2月にミャンマーに行きました。
オイスカ全体の次期10ヵ年計画を考えるうえで、海外現場の実力がどう変化したのか、
何が何でも自分で見ようと。
岡村郁男オイスカ技術顧問のお供で約2週間、私は24年ぶりに。
すでにコロナ禍は始まっていましたが、滑り込みました。
オイスカが国連開発計画(UNDP)と調査を始めたのは1995年。
まず農林業研修センター設立に向けて動き出しました。
私は職員3年目の駆け出し。資金獲得で東京の大手町、丸の内を歩く日々。
経団連自然保護協議会に対して、経団連ミッション(団長:旧安田火災海上保険・後藤康男会長)を
働きかけ、1996年11月に私も随行。あの頃に強く感じた資金獲得の醍醐味、
「すごい仕事が始まるんだ」というオイスカ会員を巻き込んだ一体感、
その一端を担わせてもらっている嬉しさを感じていました。
若いころの経験がその後の職歴・モチベーションに繋がっている自覚があります。
1996年のミャンマーは開放政策の一環として「観光年」政策を取り始め、
ヤンゴンには日本商社も入り始めました。
しかし、すでに現場入りしていたオイスカ開発団第1陣4名は、
栄養の偏りで「前歯が抜ける」(私が新人当時、最もお世話になった一人の吉永さん)ほど
苦労を重ね、第一研修センターがほぼ完成を迎えていました。
建設木材の買い付けで奥地に行って、
マラリアに罹患した僕と同年齢の若い衆もいました。
私にとって経団連ミッションは、職歴3大トピックスのエキサイティングな思い出です。
現職バリバリの方たちと、渡河、狂犬病、マラリアなどのリスク対策などで
激しく渡り合ったこと(恥ずかしいほどの私の生意気さ)を思い出します。
「行きたいって言ったのは、あなたたち経団連でしょ(誘ったのは私ですが)」などと言い返し過ぎて、
「失敗したら、経団連の目の黒いうちはオイスカに背中を向ける」とも言われました。
飛行機に乗り込んだ後は、主催者は経団連。
荷物を持ってあげようと手を差し伸べたら断られるほど徹底していました。
しかし、楽しかったことしか覚えていません。
帰路は、喧々諤々の6か月など一切なかったように、
経団連職員や団員の企業人から「共感」の声を聞くことが出来ました。
4時間ほどかけて川下りしながら。巨大クーラーボックス×2のビールは空っぽに。
帰国後、経団連常任理事会など驚くような場で、
オイスカ全体を「平成の坂本龍馬」と繰り返し紹介いただきました。
帰国直後、いまも活用されている施設の建設助成が決まり、
以後途切れることなく各国の現場をご支援いただいています。
一行がエサジョ郡を離れてヤンゴンに向かう日、
開発団第2陣の岡村郁男顧問、永石安明現専務理事が入国。
即エサジョに向かい、残念ながらすれ違いになりました。
これから苦労に立ち向かう大先輩を背にして、
ヤンゴンを後にするのが申し訳なかったことを覚えています。
25年前、「よりによって、なぜこんなに難しい場所を選んだのか!」と
オイスカ内外で言われていました。
そこで、岡村顧問をはじめとする日本とミャンマーのオイスカマンは何をどう努力してきたのか、
今回の出張では毎時毎晩、岡村さん本人から教えていただきました。
①まさに「事業規模」であること
②地元の「あの頃、若かった人」「いま、まさに若い人」がオイスカスピリットの遺伝子を受け継いでいること
③国内オイスカ研修センターの存在意義の大きさ
④沙漠化最前線とは何か、「沙漠ではなく土獏だ」と言われた荒野の変容、目の当たりにしました。
「為せば成る」は、ミャンマーにもありました。
わが仲間たちを誇りに思います。
現場の「凄み」を伝えることができるオイスカマンでありたいと思います。
後日、もう1回つづく。
【オイスカミャンマー・第1農林業研修センターのいまむかし】