7月12日、梅雨に入ったこともあり、寒冷紗をはずし、広葉樹の生育調査を行いました。
播種は5月18日。およそ2ヵ月前です。
■仙台産「コナラ」3,600粒(3.6kg)播種
→発芽本数1,080本(発芽率30%) 平均長20cm 最大26cm最小6cm
※「3.6kg=3,600粒」という割り出し方が、そもそも怪しいかもしれない。
数えたわけではないので…..
■仙台産「クリ」1,000粒(3.6kg)播種
→発芽本数614本(発芽率62%) 平均長24cm 最大38cm最小6cm
思ったより発芽率は良くありませんでした。
発芽率が低かった原因は
1.取り播き(採取後、即播種すること)ではなく、冷蔵保存種子を使用したためか?大差ないと聞いているが。
2.乾燥、土壌等
もう少し、検証が必要だ。
この活動には三井物産環境基金の助成金をいただいています。
結果は、既に報告いたしました。
しかし、採種量と発芽率の実戦感覚をつかんだことが収穫です。
クロマツとの両刀遣いは、机上で考えるほど簡単ではないですね。
ちなみに先日は、森林組合作業班の手で、オオシマザクラなどの種子を採種しました。
緑化技術参事の清藤です。
今年から抵抗性クロマツのコンテナ苗の栽培がはじまりました。
「コンテナ苗って結局ポット苗のこと?」、
「ポット苗は根が丸まると聞いているけど大丈夫?」
「普通の苗と比べて成長はどうなのですか?」などよく聞かれます。
少し詳しくコンテナ苗木栽培のことをお話しましょう。
ポット苗木は、1960年代に省力林業の騎手として台頭しましたが、「活着が良くない、成長が遅い、風に弱い」など欠点も明らかになり、結局下火に終わりました。そして1980年代にはカナダ・アメリカでコンテナ苗栽培が盛んになり、北欧でも1990年代から盛んに用いられるようになり、現在コンテナ苗が主流となっています。日本では、森林総合研究所がタイで開発利用し、2000年年後半から林業用苗木生産にも用いられるようになりました。
(図1)
それを現在では「コンテナ」と呼んでおり、24孔の容器が現在の苗木作りの主流となっております。
クロマツでは1孔が300ccのものを使っています。ポリポット、いわゆるポット苗栽培では、通常用3~4号で、径が90 ~120㎜を用い、一番の欠点は、ポット底面において著しく根が丸まる「根巻き」現象が起き、それが苗の育成、植栽後の生育にも支障を及ぼす恐れがあることで下火となりました。
コンテナは、それぞれのセル(孔)の内面にリブ(図4)が作られております。通常、側方に伸びていく根も、そのリブにそって下方に誘導されるので根が回転することなく巻きの発生が抑制されるのです。また、セルの底面は大きく開いているため、底面に達した根は空気に触れ、「空中根切」(air-purning:根が十分な通気性と体積を持つ空気層に到達した場合、根端を機械的に剪定されたのと同様に、伸長を停止する現象)され、著しく延びる細根・白根はそれ以上伸びません。
ですから根切りは必要なく、切断時のダメージは軽減されます。そして空中切断された分、根元で新たな分根が発達します。このことにより主根は真っ直ぐに、健全に発達し、根が過度に伸長せず、必要な分根・白根も確保されます(図5)。
以上のことから、特徴(長所)としては:
根鉢がついているので
1.植栽時期は土壌凍結期間を除けばいつでも植えることが可能
植栽の大きな穴を掘る必要がないので
2.植え付けが楽
自然空中根切りより根の成長点が維持されているため
3.根の発達もよく、結局育ちも良くなる
ことが考えられます。
今後、抵抗性クロマツコンテナ苗も、来年の植裁に用いられる厳しい環境に適応する苗として、順調に育つことを願っております
中央線の夕焼けを見ながら
ブログは電車の中で文章を作っています。
徹夜明けで体はしんどかったですが、いつもより夕焼けがきれいに見えました。
今日は久々、お世話になっている関係者にたくさん電話しました。
「ご無沙汰しています!」「このまえはどうも!」と、なぜか弾んでいる人が多く、
瞬く間に、再来週までの面会スケジュールが決まりました。
まだまだ遥かに多くの人にお礼を言いたいのですが。
昔の上司が、「夏に目一杯外回りすると、大きな成果が出る」と言っていました。
理にも叶っていると思いますが、理屈抜きで夏の外回りを信奉しています。
新人一年目のこと。夏を前に、300件を超える行先を終え、行くところがなくなって、
「行ってきます!」と事務所を出るものの、アポはナシ。
目覚まし時計を持って、真夏、朝から日比谷公園に。
あのころは、ベンチに「仕切り」など無く、真っ直ぐ寝れたような。
必死に考えていたのです。どうすべきなのか。
でも、寝てしまうのです。そして暑くてたまらず起きるんです。
それでも、今振り返ってもいい戦略を立てました。
冬場からずっと、名取事務所、東京の本部ともに、膨大な事務と格闘してきました。
夏を前に、今年もまたピークを、何とか乗り越えた気がします。
追われるというより、繰り返し寄せる波のようで、
思考がマヒしては、取り戻す繰り返しでした。
でも、また乗り越えた。耐えきった。
これから夏だ。外に打って出て、仕掛ける季節。
駅に着きます。夕焼けもきれいだ。
ビールとレバ刺買って、気合を入れよう。
育苗場、青々としています!
オイスカ写真展 開催中!!!
国際協力ボランティアの木村です。
7月3日(土)~20日(土)まで国連大学の中にある地球環境パートナーシッププラザ(GEOC)にてオイスカ企画展として「LOVE故郷~日本と世界で育むふるさと~」を開催しております。
日程
開館:火曜日─金曜日(10:00─18:00) 土曜日(10:00~17:00)
休館:日曜日・月曜日・祝日は休み
入場料無料!!
アクセス
東京メトロ表参道駅より約徒歩5分
JR、東急、京王井の頭線、東京メトロ渋谷駅より約徒歩10分
詳しくは…
オイスカ企画展 http://www.oisca.org/news/?p=5051
この企画展の一部のブースに「海岸林再生プロジェクト」のパネル展も行っております。先日、私もその準備をしに行きました。皆様がパネル展示で感動できるように照明の当て具合や展示の仕方に趣向を凝らしました。
パネルの制作に当たっては株式会社ニコン様からご支援して頂きました。「写真の力で復興支援」をテーマに今回の企画展ではお世話になっております。
残り、一週間ですが、皆様、是非、是非、見にきてください。
公益財団法人 フォーリン・プレスセンターの福田です。
当センターは、海外メディアの日本での取材活動を支援していますが、
そうした活動の中で、合計37ヵ国、47名の記者が、海岸林再生プロジェクトを取材しています。
2013年6月1日~3日にかけて、「第5回アフリカ開発会議(TICAD V)」が、横浜市で開催されました。
同会議を取材するため、アフリカ地域等の記者5名(英国、ウガンダ、マラウイ、南スーダン、モザンビーク)が
外務省の招聘により訪日し、視察先の一つとして、東日本大震災の被災地である宮城県を訪れ、
海岸林再生プロジェクトを視察取材しました。
視察では、津波で破壊された「名取市海岸林再生の会」会長の鈴木英二氏の自宅跡や
海岸林防波堤工事の様子を高台から 見て回りました。鈴木氏の自宅跡周辺の様子を見て、
記者たちは、「ここに人々が住んでいた家があったとは想像できない」と話し、さらに洪水被害を受けた
モザンビークの記者は、「モザンビークでの洪水被害の様子を彷彿とさせる。一見、日本とは思えない」
とコメントを残しました。
海岸林再生プロジェクトにかける思いについて「再生の会」の鈴木英二氏、森かづ子氏から話を伺うと、
「 これほどの災害に遭遇しながらも、前向きに力強く立ち向かっていくという気持ちがすばらしい」と
記者たちは話し、思いを形にする人々の意思の強さに感嘆していました。
その後、クロマツの育苗場を視察し、プロジェクトの現状と展望について話を伺い、
さらには草むしりまでお手伝いさせていただきました。
モザンビーク記者と南スーダン記者は手慣れた様子で積極的に参加しており、コツを教えてもらいながら、
まるで過去にも参加したことがあるかの様に、その場に溶け込んでいました。
特に南スーダンの記者はその手際の良さを買われ、 担当者の方から滞在延長のオファーを頂いたほどです。
同国では長く続いた紛争状態の影響などから、支援慣れしてしまった若者の就労への意識改革が課題なのだそう。
同記者は、「年齢に関係なく、これほど高い意識を持ってプロジェクトに取り組む人々は本当に尊敬に値する。
災害と紛争という違いはあるが、モチベーションの高さと笑顔で作業に取り組む人々の様子は広く知られるべき」
とコメントを残しました。
今回の視察取材を通じ、海岸林再生プロジェクトとプロジェクトに関る人々の思いが、
記者たちを介して多くの人に届くことを期待したいと思います。
私が初めて同プロジェクトを知り、現地を視察したのは、2011年の10月でした。
プロジェクトの発展・苗の成長状況などについては、吉田課長からのニュースレターで情報を得ていましたが、
実際に訪れてみると、思っていた以上に、大きな変化がありました。
2年前、山積みになっていた瓦礫・流された家の土台は撤去・整備され、
海岸線沿いでは本格的な防波堤建設に向けて工事が行われ、さらには、
育苗場のクロマツが青々しく育っている様など、プロジェクトが多くの人に支えられ、
着々と進行しているということを改めて強く感じました。
現地へ伺う機会は少ないですが、その分、海岸林再生プロジェクトとそこに関る人々の思いを
多くの海外の記者に知ってもらえるよう、微力ながら、今後もお手伝いさせていただければと思います。
ハワイアンダンス in 仙台空港・・・で思うこと
国際協力ボランティアの木村です。
6月末のこと。出張中、上司である吉田さんを迎えに仙台空港に行った時、人だかりを発見。近くまで行くと、ハワイアンダンスのショーでした!!期待してステージの前へ・・・しかし、センターで踊っていたのは黒人の男性・・・映画の『フラガール』を想像していたのでちょっと残念でした。
6月から週3便、仙台空港─ホノルル線が就航(往路は仙台─新千歳空港経由─ホノルル、復路はホノルル─仙台直行便)したそうです。震災で一時は空港としての機能を失った仙台空港ですが、2年が経ち、ここからホノルルまで行けるようになるとは驚くべきことだと感じました。
現在、名取市にある仙台空港は国管理空港です。しかし、宮城県や地元企業などは仙台空港の民営化を希望しています。そのような動きがある中でこれから、仙台空港は民営化に向けて加速しそうです。現在は空港周辺にホテルはありませんが、官から民に移行することによりホテルをはじめ、アウトレットなどの商業用施設が増えると予想します。
震災後の町づくりは地域の人たちにとても必要なことだけど、震災があったことを忘れないような 町づくりにもしていかなければならないと思います。
オイスカとしても10年先、20年先を見据えてプロジェクトを進めています。町づくりにも長期的な視点を持つことが必要だと思います。
ミャンマーからの寄附に思うこと
ミャンマーから非常に大きな支援をいただきました。
世界最貧国と言われることもある国からの支援で、現地の貨幣価値として、100万円を越える大金です。
金額もさることながら、この協力の背景をご紹介させていただきます。
1995年に着工した研修センターに、当時私は経団連自然保護協議会ミッションの随行員としてヤンゴンから丸2日かけてたどり着きました。一面の「土漠」でした。
ミャンマー農林業研修センター
国柄・人柄がとてもよく、すぐに「ビルきち」(ビルマが大好きな人)になりました。
あの国からと思うと、心から嬉しく。
駐在代表の藤井啓介氏(東京農大卒、駐在歴7年)からのメール、 ほぼ原文を使用しました。
彼の文末の言葉、とくに読んでいただきたいと思います。
オイスカミャンマー農林業研修センターが長い時間をかけて集めた寄附金をレートが良くなった今、
訪日農業研修生4名に託しました。 ここに至った経緯を紹介します。
協力してくれたのは、センタースタッフ、研修センター卒業生、イエサジョ郡の村々からの寄付(普段オイスカ・ミャンマーが事業で対象としている村々の人達)、パコックやイエサジョの市街地にあるオイスカの商品を
扱っている商店、政府関係者等からでした。そして、今回の寄附金を集めるのに最も重要な役割を果たしたのは、他でも無い我々のセンターのスタッフでした。
3月11日のニュースは、ミャンマーでも発生直後から大きく取り上げられ、自分も日本人だからという事で、スタッフや地元の知り合い等から、自分の家族や知り合い、そしてオイスカ関係者の安否を心配する声を連日掛けられました。
その後私自身も日本人として胸が張り裂けそうな思いでいる時、あるスタッフが私に今回の災害に対して何か自分達にもできないだろうかという話をしてきました。
その日の夜の定例ミーティングの場で私は彼らに以下の様な話をしました。
「今、日本で大変な災害が起きた事は皆さんも承知していると思います。今回は、自然災害の多い日本でも未曽有の大災害と言える規模になるのは確実でしょう。皆さんの第2のふるさととも言える日本の事だから皆さんが
心配してくれているのは私もとても有り難く思います。そして、皆さんはあの2008年のサイクロン・ナルギスの被害で多くの善意を日本からも受け取ったのを覚えていると思います。その時の恩返しという意味で、今回の災害に対して皆さんが何ができるかと私は聞かれたが、私からは具体的に何をしなさいという指示はしたくないです。ただ、皆さんの想いが、そして何らかの行動が被害に遭われた多くの日本人を必ず励ます事になると思います。被害に遭われた方々にとって、今必要な支援は多岐に渡ると思われます。その方達の緊急、そして復興に確実に活かされる支援であれば、その額や量が多い少ないは問題では無いのです。何ができるかと考えているよりも、皆さんの想いを今からすぐに行動に繋げたらどうだろうか」
その後、彼らが自分達で自主的に寄付を集めはじめました。
スタッフ自身からの寄付のみならず、普段私達が支援をしている周辺の村にも支援を呼びかけていったのです。普段は支援される側の村人達が、スタッフの呼びかけに応じそれぞれが少ないながらも善意の寄付をしてくれました。
そして、村人以外の普段オイスカと関係のある人達、そして今はセンター外に住んでいる研修生OB達も続々と寄付の呼びかけに応じてくれました。
また、2008年に私達がサイクロン支援活動をした地域の人がわざわざ遠いセンターまで寄付金を持って来てくれた事もありました。
「あの時にオイスカ、そして日本の方から受けた恩を忘れた事は今まで無い。
今回は自分達に支援を届けてくれた日本が大変だと聞いて、どうしても届けたいと思って持ってきたんだ」
と言って、皆で集めた寄付金を大事に持って来てくれました。
上記の様な額が、それも他国の災害に対する寄附金として集まったというのは、ここミャンマーでも恐らく異例の事だと思います。
今回の出来事を通じ、これまでの私達の活動の意義が 実はここにあるのではという思いを強くしました。
つまり、私達が取り組んでいる国際協力活動とは、一方通行のやり取りでは無く、双方向の絆を深めるのに大事な役割があるのだと思ったのです。すぐに目に見える成果と言えないかもしれないが、もっと大事な精神的な繋がり、お互いを思いやる関係を私達オイスカとミャンマーの人達はこれまでの取り組みを通じて築いてこれたのだと思いました。
これからも、私達オイスカ・ミャンマー事業はこの大事な絆をより多くのミャンマー人と築き、そして深めていく事ができればと思っています。
育苗事業では女性の関わりが欠かせません。
会員の半分近くは女性です。
関係者一同が集う「名取市海岸林再生の会」の通常総会・懇親会。
懇親会で私の隣に来て下さった女性たちのコメントを幾つか紹介します。
********
「今までの人生では経験しなかったことばかり。皆さんの支援のおかげです。
広い世界を知る機会に恵まれたと思っています。もっと勉強したい。
この前はアフリカの熱心な記者さんたちと草取りしたのが楽しかった。
私たちにも研修の機会を下さいね。また海岸林の本も貸してね。
でも、マンガだと読みやすいわ。一晩で2冊も読めたし
(襟裳岬の海岸林造成の小冊子)」
********
「まだ農業の収入は、震災前の4分の1。でも、家を建てることになりました。
税金も払わなければいけないし、これからは本当に大変です。
この活動に参加して、もちろん家計も本当に助かっています。
この前、支援者の方たちと一緒に作業したことで、私たちは支援者の事を
もっと知らねばならないと、ようやくそのように思えるようになりました。
ぜひ、これからはもっと支援者と一緒に汗を流し、彼らを知る機会を下さい。
私たちは寄付して下さった人のおかげで、この仕事ができているんですよね」
********
「仙台市で植栽されたクロマツが枯れてしまったという新聞記事を読んで、
みんなで悲しい思いをしました。その中には私たちが昨年育てた苗(1,000本だけ
1年生苗を育苗技術研鑽のために購入し、出荷の練習をした)もあるんですよね。
計画を立てる人たちが努力をしていることを聞いているだけに、一方的な記事に
憤慨しました。私たちが来年植えても枯れてしまうこともあるかもしれません。
むかし(昭和40年)、名取の一番海側に植えたときもクロマツですら枯れてしまった
事も知っています。それでも何度も植え直して大きくなったのよ」
********
「ぜひ、2011年9月のときのように(被災地住民と蔵王町の育苗農家や、
県の技術センターを繰り返し視察)、研修をしたいよね。
去年、風の松原(秋田県能代市)と、由利本荘市の海岸林をみんなで視察したでしょ。
行政と市民が協力して名取よりも大きな海岸林を守っている姿、
何種類もの広葉樹を植えたけど全滅して、やっぱりクロマツを植えている現場を見ました。
またいつか、遠くなくてもいいから、海岸林視察や、
育苗農家の様子を見に行って、色々な人から教えてもらいたいね」
********
「私たちは女性だから、そこら辺の事しか見えていないけど、きめ細やかに仕事を
する点では男の人よりも自信があります。女性らしさを活かしながら、
この大きな仕事を頑張るからね」
********
********
「第一育苗場で仕事をしていると、流された実家の場所が見えるので、
時々涙が出てしまうんです。未だに海の方に行くのも、車に乗るのも怖くて・・・。
それでも、昔から知っている人同士でおしゃべりしながら仕事をするのが楽しいのよ」
********
********
「この仕事に出会えたご縁を感じます。海岸林を再生させようという仕事に
どうして出会えたのか不思議でなりません。家も仕事も失いましたが、
本当に仕事が楽しい!」
********
多くの女性から声をかけていただき、向上心が強まっていることを再確認できました。
担当者冥利に尽きる、何とも言えない嬉しい収穫でした。
2年が経過したんだなあと、実感しました。
必ずご意見を反映させていきたいと思います。
♪名取発の大ヒット曲!
再生の会総会のあと、たくさんで繰り出しました。女性ももちろん。
「団十郎さん、団十郎さん」と、言っているけど、まったく訳が分からない。
名取駅からしばし南、とんちゃん屋(ホルモン焼き)の2階、
「団十郎」と書いた緑色のネオンのスナックへ。
しばらくしたら、カラオケの画面に、マスターご本人が。
僕の後ろではご本人がまるでお客さんのように歌いはじめた。
え~ まさか~
♪ダンダン ドゥビドゥビ ドゥバダ!…
「ああ宮城県 第2章」(2011年8月発売)
http://www.youtube.com/watch?v=-b_tF3ElpoI
「ああ宮城県」(1976年)
http://www.youtube.com/watch?v=-UZxUoZTbjI
40年前のヒット曲、そして震災を経てその第2章を唄う、
まさにご本人なのだそうです。 しかも、名取市ご出身。
帰京後、ネットで調べてしまった。
事態を飲み込むのに時間がかかった。
皆さんも是非聞いてみてください。
覚えちゃうんじゃないでしょうか。
みなさん曰く、
「第1回定期活動報告会in名取」(今冬予定)は団十郎さんに歌ってもらうか~」
われわれらしく、悪くない。