3月29日。
自分の荷物の引っ越し。
東京から名取へ拠点を移しました。
翌日はほとんど縛りがないため、
名取市南隣、岩沼市内山中の「グリーンピア岩沼」に宿を取ってみました。
途中、岩沼市役所近くにはイイ飯屋があるのではと思って、空腹に任せ、
国道4号線から道を外れ、いつものようにヤマ勘で。
「かつ吉」!!
こんなに旨いカツはない。思わずスタンプカードをもらってしまった。
宿をめざして一直線。既に夜半。
竹駒神社近くに「二木(ふたき)の松」という看板が目に入り、明日ゆっくり見てみることに。
偶然、宿のチラシ置き場で「おくのほそ道と岩沼」という文字が目に入り、
チラシを部屋に持って帰り、金曜ロードショーの「ルパン三世」もそっちのけで、
感心して読み入ってしまいました。
「おくのほそ道と岩沼」 詳しくはコチラ(PDFファイル)
「武隈」=岩沼の古称。
「武隈の松」=「陸奥のシンボル」
「武隈の松」=「二木の松」
「二木の松」=7代目
その間、西行法師も訪れ、芭蕉も一句を読んだ。
車で移動すると、東北道沿い黒磯付近には大層立派な「赤松並木」があり、仙台東部道路からは樹齢350年を超える巨大な「行燈松」が名取側の土手の上に見え、奥州街道の宿場町であった名取駅近くには樹齢数百年の「衣笠の松」がありますが、「二木の松」は存じ上げませんでした。
このコースは車がお勧めです。宿は部屋が広い!スポーツ施設が充実し、団体研修・旅行には最適。
3月末は、気温20℃を超える日が2日続きました。
ですが、やはり「三寒四温」。
農家の人と話すとすぐこの言葉が出てきます。
3月30日は一転して冷たい雨。
去年は、降ったか降らぬかわからない雨ばかりでしたので、
良い方に解釈したいです。
乾燥注意報が全県に出ていたし、こっちの業界は、体を休める日にもなったことでしょう。
自分の着替えや、書類などを引っ越ししてきました。
引っ越しといっても、いたって簡単。
コンテナ苗はビニールハウスの外に出されました。
ですが、寒さ除けの「寒冷紗」の中です。
以前、広報室長が気付いた「頂芽」は、ほかのどこに行ってもまだ白なのですが、うちの育苗場の多くは茶色に変色。
防風ネットの効果かもしれません。不勉強なのですが、「三寒四温」で白→茶→白→茶と、その日に合わせて、重ね着、薄着を繰り返しているように、私には思えてしまうこの頃です。
明後日、気象庁仙台空港測候所に行って、また気象データをいただきながら、専門家のお話も伺おうと思います。
心強い支援者 (株)髙島屋
1997年からオイスカ法人会員として活動全般をご支援いただいている「髙島屋」さん。バブル崩壊直後の1994年、私はの新人一年目に同社の担当になりました。仕事もできないのに年に数度、「近況報告」としてどの企業も訪問し続けていました。1995年にお呼びがかかり、退会の申し入れを告げられました。ですが、何とか半年、訪問のチャンスをいただくうち、再度お呼びがかかり、松任谷由美さんデザインで当時「エコバック」として全く先駆けなのに、「販売益全額を「子供の森」計画に寄附したい。予定額は数百万円」(結果的に600万円強)というお話でした。加えて会員も継続。
その後も、大阪店110周年記念に、①従業員食堂の1メニュー売上分、②屋上での社員によるバザー、③子ども向け「ガチャガチャ」販売益による「子供の森」計画寄附。最近ではフィリピン台風緊急支援もいただきました。
今も昔も、幾人もの方にお世話になっていますが、繁忙期やキャンペーン時期、催事への応援に出られることがとっても多く、消費動向に敏感なCSR室に見えます。
そして今はカタログギフト「ローズセレクション」。
価格別になっていますが、海岸林をはじめ6団体の活動に寄附できます。
2011年秋には支援を決めて下さり、翌年春のカタログ切り替えのタイミングからスタート。
海岸林支援を「ご購入」(=寄附)いただいた方のうち希望者に、お礼状をお送りしております。
毎月金額もわかるので、私にも社会の動向を感じる素材です
(西友さんのレジ募金もまた別角度の定点観測材料になっています)。
また、4万人もの従業員への広報啓発として社内報にも大きく取り上げてくださいました。
1997年以来、本業を活かした資金支援、広報啓発協力を私に教えていただきました。
おととい、まさに美人で、お客さんと向き合う前線が似合う室長に電話して、
ちょっとしたご依頼をしました。「今日、夕方までに送るからねー」。
毎日飛び回っていることは長年のお付き合いから百も承知。
ご依頼にも早々に回答いただき、追加の支援検討のお話もいただきました。
震災から3年もたっているのに、ありがたいことです。
ずっと、心をこめてご支援いただいている宮城の現場で、
例え一度でもいいから、ご一緒したいと思っています。
強く思ったことは必ず実現するものですよね。
広報室の林です。
本部事務所の裏口にこんなものが!
トレーニングをしているのは、プロジェクト担当の吉田。
今春はじまる植栽や各種作業に向けて
なまった体を鍛えようと、休憩のたびにトレーニングをしているのだとか。
吉田は4月からしばらく名取に駐在します。
2012年春は播種
↓
2013年春は播種+床替え(移植)
↓
今春からは播種+床替え+山出し(出荷)+植栽
と作業量が一気に増えるためです。
4月からは第3土曜日にボランティアを受け入れます。
(ボランティア受け入れ計画はこちら)
ぜひ皆さん、ご参加ください!
数字でわかる「名取市東部の農業復旧状況」
JA名取岩沼さんにご理解いただき、
名取市東部の畑作共販実績を抜粋してお伝えします。
震災前と現在を比較しました。

――震災前と比べて、収入はどのぐらい回復しましたか?」
「50%弱だな。50%にはギリギリ届かない」
震災直後から復活を期して立ち直る努力をし、
年に6回小松菜を出荷しても、毎年ビニールハウスを10棟づつ増築しても…
表の右下の数字は、チーム海岸林十八番の「クイズ」出題の可能性が高いです。
――(最も海寄りに農地を持っていた)北釜地区300人の農業従事者のうち、何人が本格的に農業を再開していますか?
「20人ぐらいだっちゃ」
――前に30人ぐらいと言っていましたよね?
「んー、20人だ」
H27年度から最も沿岸、海岸林脇での農業が再開されると聞いています。
――(海から数キロ離れた農地で主に行われていた)稲作の復旧状況は?
「今年から全面再開と聞いてる」
そういえば、日本農業新聞の全国版に掲載いただきました。
3月に2度も。HP「インフォメーション」欄をご覧ください。



国際協力ボランティアの木村です。
昨日の閖上①に続く第二弾は写真だけでお届けしたいと思います。
今年の3.11をもって震災から3年目が過ぎました。
「震災の風化」が言われておりますが、
「忘れないでほしい」「こういう現場が今でもある、昔あったことを知ってほしい」という気持ちで
このような形で掲載させていただきました。
思い出したくないという方もいらっしゃるかと思いますがご了承ください。
沿岸部は未だ殺伐とした光景。
しかし、一歩一歩前進しているといつも感じます。
名取市海岸林の北端、閖上港の今を見ることができました。
5km南の名取市最南端から見えた光景も、ガレキ処理の水蒸気ではなく、
閖上港復旧にあたる数本の巨大クレーンに代わりました。
海に面した最前線の県有林・市有林などは、
震災直後から「名取市内のガレキ置場」として提供されていましたが、
関係者のご尽力で、数か月も前倒しで処理が見事に完了し、
港湾整備と海岸林盛土造成の準備がすすんでいます。
初めてここに行ったのは2011年4月21日の航空調査。
5月25日には陸上踏査を行いました。
見渡す限りの倒伏したクロマツ、2時46分を指したままの時計、
あらゆるものが散乱していたことを思い出します。
復旧が開始され、一瞬でクロマツは撤去され、サイクルスポーツセンターも解体。
名取市内の全てのガレキが集積され、西松建設JVが24時間稼働して白い蒸気が夜も上がっていました。
一度だけ、ガレキ処理現場を視察する機会をいただきましたが、
瓦礫と海水交じりの砂を分別するという特殊事情に対して、
プロ180人が最先端の機器で処理にあたっていたのが強く印象に残ります。
2011年9月に積み上げられた木質ガレキが、圧縮熱で火災が発生し、海水で消火したためです。
今回は、名取市海岸林最北端の基点も確認できました。
数年後は、ここも我々の現場になります。
「閖上」(ゆりあげ)という地名は、名取側の河口。
砂が寄せ上げられ、船舶が座礁したり、転覆することも多かったそうです。
元々は砂が寄せ上げられるの意味の「よりあげ」と呼ばれ、
転訛して「ゆりあげ」と漢字のない地名で表記されていたとか。
伊達家4代目の殿様がここを訪れ、御寺の門の向うに水が見えたから
門に水=「閖」という字を付けて「ゆりあげと呼ぶように」と決めたとか。
西日本研修センターの農業研修生10名が現場訪問した際、
「鎮守の神様にお参りしたい」とのリクエストがあり、
名取市海岸林再生の会の鈴木英二会長とともに寄ってみました。
マンホールを指して、「これが地盤沈下の証拠だよ」と。
本当にこれがそうなら、恐らく70cm以上沈下したことになります。

「名取市 地盤沈下」と検索したら、
国土交通省HP内の宮城南部の地図がヒットしました。
http://www.mlit.go.jp/common/000143300.pdf(国土交通省、宮城県)
こんなに広範囲に海抜0メートルになっているとは…
参考まで、名取市南側の岩沼市、HPには下記のような記述がありました。
仙台平野では、海抜0メートル以下の地域が、
震災前の5倍余りに広がり、高潮などによる災害の危険性が高まっています。
前には、岩沼市や名取市などで3平方キロメートルしかなかったが、
海抜0メートル以下の地域が、震災後には16平方キロメートルと5倍余りに広がっています。
中でも岩沼や亘理では、これまで、ほとんどなかった海抜0メートル以下の地域が、
沿岸部の広い範囲で確認されました。大潮の満潮時の海面と同じ高さになった地域も
、面積は前の32平方キロメートルから56平方キロメートルに増え、
名取や岩沼では海岸からおよそ5キロメートルの地点まで広がっているところもありました。
さらに、昭和55年に過去最も高い潮位を観測し、
沿岸部の住宅が流された時の海面と同じ高さになった地域も、
前の83平方キロメートルから111平方キロメートルに広がっていることがわかりました。







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