震災以来3年。
節目となる大きな良き出来事があり、
夜、第1育苗場班長夫妻を訪ね報告しました。
地元を束ねる自治会長でもあり、仕方なく2期目も続けるようです。
母屋は津波で流され、本人いわく「納屋」の2階に今もお住まいです。
納屋と言っても住むには十分。ですが、確かに納屋は納屋です。
「絆なんて、そんなもんはない」
開口一番、夫妻ともども、声をそろえて。
ちょっと、ドキッとしました。
僕が来るまで、二人で何か話していたんでしょう。
それからはゆっくり世間話。お題目は40品目ぐらい。
TTPから、第2育苗場のTさん達との小学校同期会20年続く温泉旅行での、
男らしさ丸出し(馬鹿さ加減的に)の暴露話まで。
自分たちと違う世代と話したくって仕方ないんだと思います。
子どもさんたちは、すでに社会人となり忙しく、
孫と話したくても事情が許さず。
話を聞いてくれる人、話し相手になってくれる人が
欲しいんだと思います。
時折、私自身の事を聞かれます。親をどう思うか、地域社会とどう関わっているかなど。
違う世代と話す機会が少ないのは、被災地に限った話ではないですね。
はじめは「おなかが痛い」とちょっと弱ている様子でしたが、
徐々にそうでもなくなり、気が付いたら23時になろうかと。
3時間世間話をした後は、奥さんから「治ったんじゃないの?」と。
ところで、「絆がない」とは家族の絆のこと。
身につまされます。親としては、時には子どもに一言苦言を言いたくもなりますね。
3年がかりのこの仕事を、3人でいろいろと振り返り、
吉報をしみじみと、喜んでくれました。
農業はいよいよ本格モード。この春もお互い忙しい。
今晩はお互い休肝日。「とんちゃん」もなし。
お茶をゆっくり、何杯もいただきました。
1995年、私は社会人2年目。
ある巨大アメリカNPOと大手町で日々、向き合っていました。
そのNPOは霞が関や大手町・丸の内を席巻しているかの如くの勢いでしたが、
理念や運営方法、市民へのアプローチもオイスカと近いと感じ、
無力な一新人のくせに「なにくそ」と心底思いつつ、その裏、内心は興味津々でした。
経団連さんに頼んで、シンポジウムを一緒にやらせて貰ったり。
私は英語は話せませんので、経団連の職員の方に通訳を頼んで話しをさせてもらい、
その団体の日本部長の女性から、「ミッション」という言葉を教わりました。
BS放送というものが始まった頃だったと思います。
そのアメリカNPOの後方支援部隊、
つまり資金獲得部隊の様子がNHK-BSで放映されることをこの団体と引き合わせてくれた
神戸製鋼所や安田火災海上から経団連自然保護基金へ出向した方が教えてくれました。
支援の問い合わせ、資金の協力の申し出の手紙が、毎日届いていることを物語る、
箱の中に満載の映像が、一瞬、テレビに出てきたことを今も忘れません。
いつかそのような、共感を得られる現場を実践したいと思いました。
いま、箱一杯とは言えませんが、毎日寄附を寄せてiいただけるようになりました。
ここ2ヵ月ぐらい寄せられる寄附の6割方は、宮城県からです。
見知らぬ方たちが、しかも幾人の方たちが、単なる「イイね!」ではなく、
行動をして下さっているとしか思えません。
私たちには分かりませんが、いま、何かが起きはじめたように思えます。
と同時に、期待されることの怖さも知っているつもりです。
私はアメリカには一度も行ったことはありません。
英語は全く話せません。でもいつか彼女の力に追いつこうと、ずっと思っていました。
強く思えば必ず叶うという体験は、これまでも何度もありましたが、
何となく、背中が見えてきたのは間違いありません。
でもそれは、見ず知らずの、またはよく知っている「同志」の皆さんのおかげ。
多くの方の活躍の環境を整える、多くの方をつなぐのが、
私たちに与えられた「ミッション」とずっと思っています。
2月22日 「海岸林再生プロジェクト 第一回定期活動報告会 IN 名取文化会館」
木村です。
「海岸林再生プロジェクト」も4年目を迎え、
いよいよ今年の4月から植栽が始まります。
皆さまのご支援のおかげで漕ぎ着けました!
ご支援ありがとうございます。
そんな節目の時に「オイスカ」「名取市海岸林再生の会」が主催、「名取市」が共催し、
名取市民に向けて、行政との協定締結の宣言と
今後の意気込みを伝える報告会を開催します。
海外研修を終え、「海岸林再生プロジェクト」に戻ってきて、
最初の大仕事が「第一回定期活動報告会」ということで戸惑いはありますが、
当日は会全体がうまく動いていくように裏方に徹してがんばります。
おもしろいとか、たのしいとかということ以上に、
ビシッと会が決まるようにしていきたいと思っております。
報告会の目玉は東京大学名誉教授の太田先生の基調講演ですが、
私の注目はトークセッションで当プロジェクトの主担当であり、
私の上司である吉田課長が大勢の前でどんなことを話すのかということです。
詳細はこちらをご覧ください。
→http://www.oisca.org/kaiganrin/1600(第一回定期活動報告会のご案内)
「さすが!」と思わされるお助け隊員さん 2
昨日の続き、NHK出版・倉園さんからの寄稿文です。
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さてさて、著者の太田氏が本書を書くにあたって
協力してくださったのがオイスカさんです。
オイスカさんは「寄付金控除」の対象になるぐらい、
信頼すべき活動をなさっている公益財団法人です。
(ということをあとで知りました。ごめんなさい。)
「寄付金控除」とは、寄附した金額分を、
所得控除に含めることができるということです。
例えばもし年収が400万円で、所得控除が100万円で、
300万円に対して所得税・住民税がかかるとします。
オイスカさんに1万円寄附すると、所得控除が101万円になり、
299万円に対して所得税・住民税がかかるようになるわけです。
なにか社会のためになることがしたい、
でも時間がない、せめてお金を有意義につかいたい。
そういう方にとってこの制度はいいことずくめです。
かくいう私もオイスカさんで初めてこの制度を知って感激し、
ええと、いくらでしたっけ(内緒)寄附させていただきました。
どうぞご検討ください!
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月刊「OISCA」の今月号でも、「寄附金控除」について紹介しています。
ご寄附くださった皆さん、倉園さんが「いいことずくめ」だというこの制度、
ぜひ活用してください!
「さすが!」と思わされるお助け隊員さん 1
このブログでも何度か紹介している
太田猛彦先生の『森林飽和』の編集を担当した
NHK出版の倉園さんに寄稿をお願いしたところ
「さすが!」と思うものが送られてきました。
今日、明日と2回に分けてご紹介します。
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「山」と聞いて緑に覆われた山を思い浮かべた人。
子どものころ画用紙に「山」を描いて緑色に塗った人。
あなた方は「現代人」です。
なぜか?
100年前、人が思い浮かべる「山」の色は茶色だったからです。
本書の口絵を見ればわかります。
これがほんの100年前までの「山」の姿。
なぜか?
すべての木は切られ、草は刈り取られていたからです。
人は木や草を使わなくなった。
その結果、山は緑に覆われた。
それだけなら、問題はなかったのです。
何が起きたのか。
山から遠く離れた海辺で、砂浜がなくなり始めたのです。
山の木と海辺の砂と、なんの関係があるのか。
そう思った方は本書37ページの図を見てください。
立ち読みでも分かります。
風が吹いて本当に桶屋がもうかる仕組みです。
人が木を使わなくなった→OK。
だから山に緑が増えた→OK。
だから砂浜が減った→??
砂浜は減るのは上流のダムのせいだ、
いやコンクリートに使おうと取りつくしたせいだ、
いやいや浜辺のテトラポッドのせいだ、
いやいやいや温暖化で海流が変わったせいだ。
いろいろ言われます。
でもたぶん本当の理由は「山に木が増えたから」です。
砂浜が減った理由は、
サル、シカ、イノシシ、クマが増えた理由と同じです。
大まかに言えば、花粉症が減らない理由とも同じです。
いったい、いまの日本で何が起きているのか。
本書を読むと、未だかつて経験したことのない時代に
私たちが入っていることを実感します。
それは本書218ページの図でわかります。
立ち読みでもわかります。
でも、できれば、買って読んでみてください。
「原生林」のはずの白神山地から大量に木が切り出されている図とか、
今でこそ多摩の水源林だけどマツの木が一本しかなかった時代の写真とか、
これらは立ち読みでわかるとしても、
「自然豊かな里山が失われつつある」
「大雨による土砂災害が増えている」
「森林は渇水をふせぐ」
「針葉樹の人工林より広葉樹の天然林の方が水をためる」
のような思い込みを、
全部ひっくり返すためには、
この本をお手元に置いて欲しいと思うのです。
(図書館でも借りられているようなので!)
編集担当である私にとっても意外なスピードで版を重ねて、
いま第5刷となりました。読んでくださった方、ありがとうございます。
読売新聞で畠山重篤さんが書評を、
朝日新聞で高村薫さんが紹介をしてくださり、
日経新聞、北海道新聞、意外なところでは
俳人・宇多喜代子先生が取り上げてくださいました。
刊行から1年半、じわじわと広がりつづけているようです。
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ここまでは、『森林飽和』の魅力ですが、
明日はオイスカの魅力?を語ってくれます!!
2011年の「海岸林再生プロジェクト」立ち上げを、
指折りの配慮でバックアップいただいた方の転勤先近くに仕事で行くことがあり、
「ひさびさ飯でも!」とノリで電話したところ、
海岸林ではない仕事ですが互いの目的も偶然合致していて、
その方と運よく半日ご一緒できました。
「最初はなんちゃって団体の一つ程度に見られてたよねー」と、
3年前を振り返って鋭い一言。
当時、我々の実施能力に懐疑的な見方もあったことは、
体でしっかり感じてきました。
私自身でも、逆の立場ならその通り疑うでしょうね。
その方は、2月22日(土)15時から名取市文化会館で行う
「第1回定期活動報告会」に、真っ先に申込表明をしてくださいました。
立ち上げにはさまざまな方が関わってくださいましたが、
今回の報告会の意義を我がことと思って来て下さる方のためにも、
恥ずかしくない「みんなの晴れ舞台にしたい」と思いながら準備しています。
震災から間もなく3年になりますね。
昔、初めて関わった山の整備で
以心伝心で信頼し合って仕事できるまで3年かかったことを思い出します。
(もっとも今回は、もっと早く充実感と手ごたえを感じましたが。)
支援者になろうなどという態度を見せなかった銀行幹部の方が
3年目で突然個人で会員になって下さったこともありました。
毎日全国の方からご寄附が続いていますが、
特に今、「宮城県内からが件数ベースで6割以上」。
まさに今、宮城からの、
しかも個人からの寄附続伸には驚いています。
3年が経ち、まったく見ず知らずの大勢の方から応援いただけるようになってきました。
大仕事=3年というのは、常に思います。
「信頼醸成に3年かかる」。
立ち上げの時に想定しました。
日々、山のような仕事との格闘の毎日。至らぬことばかり。
時々、仕事の物量や期待からのプレシャーなのか、
手が動かなくなるような感覚になる時があります。
ですが、支えて下さる無数の人のためにも、
粘り強く、粛々と頑張ってゆこうと思います。
3ヵ月予報「東北、気温は平年並み」
「1月23日、気象庁仙台管区気象台が東北地方の3ヵ月予報(2~4月)を発表した」と河北新報社が報じました。
その太平洋側について注目すると、「気温は平年並みか低い」「晴れが多い」とのこと。
ちょうどその日、ある最前線に立つの技術系行政マンとの話の中で「雨がいくらかは降って欲しい」と祈るような、絞り出すような会話がありました。全く同感。去年のようだと本当にキツイ。3月から6月は「観測史上最も降水量が少ない」という年でした。
床替の翌日4月21日にしっかり雪が降り、ぬか喜びしましたが、その後は気温は低く、乾燥と寒風続き、曇りの日も多く、雨が降ってもお湿り程度で、ちょっとの雨ではすぐ乾いてしまう砂地の育苗場でヤキモキ。電話した相手にいつも天気の事を最初に聞いていたことを思い出します。
冬の寒さが気にならないほど、春の気候がまた気になってきました。
盛土の上で、気候、天候との間でどんな展開になるのだろうか。
佐々木統括との日々の会話は、天候を念頭に置いたシュミレーションを常に話し合っています。
考えられるだけの事をすべて考えて、最終的な選択は一つ。
僕らの頭は合戦前のような感じです。
しばらく、最も外仕事がない1月ということで、ブログを随分お休みしてしまいました。
記録しておきたいことは山ほどあります。また電車の中で頑張ります。
今回は新幹線の車中です。
国際協力ボランティアの木村です。
宮城県支部の新年会に出席したとき、オイスカの顧問であり、東京大学名誉教授である私は太田猛彦先生が講演をされました。私はそのパワーポイント操作をさせていただき、一番近い場所でお話を聞くことができました。
太田先生は森林に関する専門家です。難しい話が展開されるのかと心配しましたが、私のような専門外の者にでも理解できるように丁寧にお話しして下さいました。
先生の話の中で、衝撃を受けたのは、昔(室町時代、戦国時代、江戸時代)の日本の国土は緑豊かな姿だったと思い浮かべがちだが、実はそうではないということ。
その時代は、食糧確保や燃料としての薪の確保、あるいは材木のため、
山に人が入り、どんどん木が切られている状況だったそうです。
その結果を示す証拠として、浮世絵など昔の絵画の後ろには
緑色がない山がたくさん描かれていると、具体的な事例を示しながらお話ししててくれました。
多くの日本人は、木は切ってはいけない、木を植えないといけないと
思いすぎているようですが、実際は日本の森林は飽和状態で、
逆にもっともっと木を使わないければといけない状況なのだそうです。
そこで思い出したのは再生の会のメンバーの方々にお話を伺ったときのことです。
再生の会の方々は、子どもの頃、燃料として使うために松葉拾いによく行っていたそうです。
それと同時にきのこも収穫していたそうです。マツは栄養分のない土地でよく育つ木です。
昔は人が山に入り、栄養分となるものをすべて生活のために取っていきました。
だから、昔の木はマツが多かったのだそうです。
さらに面白い話は、小泉元首相が北朝鮮を訪問した時にいただいたお土産が
マツタケだったという話です。北朝鮮の人は貧しくて、
山からの恵みをすべて取りつくしてしまい、ある木といえばマツだけで、
それで特産品がマツタケなのだと…。
太田先生の著書、『森林飽和』はとても好評で、
すでに第5刷まで増刷されていると上司から聞きました。
今回の講演で聞いたあっと驚くような森や山の話が書かれています。
ぜひ、みなさん、読んでみてください。
凛とした雪と仙台の人々
国際協力ボランティアの木村です。
先日、半年ぶりに宮城に出張してきました。目的はオイスカ宮城県支部の幹事会と新年会の準備、来月行われる「海岸林再生プロジェクト定期活動報告会」の打ち合わせと企業訪問のためです。
幹事会、新年会とも「海岸林再生プロジェクト」の経過報告と今後の予定の説明が行われました。担当である吉田課長は「株主総会みたいな感じだ」と張り切っていました。新年会では32社、50名のオイスカ会員の方が寒い中、お越しくださり大いに盛り上がりました。
次の日は仙台市内の企業さんを訪問しました。私はプロジェクトのある名取市へしか出張したことがなかったため、仙台の街並みは新鮮な感じがしました。その 日の朝は粉雪が舞っていました。雪の降らない地域に生まれ育った私にとってはめずらしい光景です。路面はうすーく白に染められ、街ゆく仙台の人たちは慣れ た足取りで凛としていました。そんな凛とした仙台の人とたくさんの荷物を抱え、転ばないように歩く自分と比較して、「かっこ悪いな」と自嘲してしまった出 張でした。
広報の林です。
よく「名取、寒いでしょうね。雪は降りますか」と聞かれます。
寒さに弱い私は昨年、一昨年の3月11日の現場訪問時の寒さに凍えていました。
現場のおじさんたちからは、津波から逃げて体がぬれたまま屋根の上で一晩を過ごした話
など聞いてはいましたが、その寒さを体験して、当時の大変さを思い起こすと苦しくなるほどでした。
昨年は、4月後半の移植翌日の雪にも驚かされました。
ものすごい積雪ではありませんでしたが。
今年はまだ積雪の便りは現場から来ていませんが、昨年、東北復興新聞に掲載された写真には真っ白な雪が積もっていたのを思い出しました。
苗は積雪に埋もれていた方が寒風にさらされない分ダメージが少ないのだと聞きました。今年は雪、積もるのでしょうか。