宮城県名取市でオイスカが進めている海岸林再生プロジェクトの現場にボランティアとして
東京からよく来てくれる井上悦子さんと、先日話す機会がありました。まだ20代半ばです。
ボランティア活動のきっかけになったのは、
学生時代に参加したバスツアーで宮城県の南三陸町を訪ねたことでした。
ボランティアが横一列に並び、少しずつ前へ進みながら、津波に襲われた畑に積みあがった
がれきの中から被災者にとって大切なものを見つけていく。そんな作業をしたといいます。
「こういうことは地元の人にはできないんだ。この場所には来たくない人だっているんだから」
そんな話を聞いて、被災者の心情をはじめて知り、同時に自分が代わりになって
やらせてもらってもいいんだ、と納得もした、と井上さんは言っていました。
「地元の方の気持ちも、話を聞くまではわかりませんでしたから」
活動を通じていろいろなことを学んでいくということも、ボランティア活動の重要な要素でしょう。
被災した人々の気持ちには震災から何年たっても私たちには推し量れないものがある。
彼女の話に、そうしたことにも気づかされました。
海岸林はそこに生きる人々の日々の暮らしを守るインフラです。だから、地元の人々が
中心になってプロジェクトを進めていってほしい。しかし、言うまでもないことですが、
プロジェクトの現場は津波に襲われた被災地でもあります。
そのことが地元の人々に持っている意味の本当に深い部分は我々には分からない。
6年前の震災の後、新聞記者をしていたので定点観測をしたくて何度も宮城県石巻市に通いました。
もちろん震災から1か月あまりして行った最初のときの衝撃が一番大きかった。私は、なんとなく、
津波によって多くの人が大切なものを失ったのだと思っていました。それは間違いではありません。
多くの人が家族をなくしたのだから。しかし、がれきの山を見ながら少し別のことを考えました。
例えば、マリリン・モンローの「帰らざる河」という歌のレコードを見つけました。
CDではなくレコードです。「誰かが大切にとっておいたものだ」と、まず思いました。
しかし、もしかしたら、持ち主はもう聞かなくなったのに捨てるに捨てられなくて物置の奥にしまったまま、
そこにあることすら忘れていたのかもしれない。そんなふうにも思えてきたのです。
がれきの中には、およそありとあらゆるものがありました。
そこには、大切なものもそうでないものも、あるいは隠していて人には見られたくなかったものも、
何から何まで落ちていました。津波がすべてを流し去ったということは、ある人の生活の表裏すべてが
津波によってぶちまけられてしまったということでもありました。
私たちはすべてを失うことなど考えずに生活しています。と同時に、
すべてを人前にぶちまけるなどということも決して考えはしません。
震災は、すべてを奪うと同時にすべてをぶちまけるという意味でも、人を苦しめたのではないか。
正しいかどうかは分からないけれども、がれきを前に、そんなことを考えたことを覚えています。
6年たって景色は変わりました。
海岸林再生の現場に植えられた松の成長には勇気づけられます。
しかし、そこはいつまでたっても被災地です。被災地ということは、被災した人々が現実にいる
ということです。そのことを忘れてはならない。井上さんの話は、そのことを教えてくれました。
「記念日ジャーナリズム」などといって、メディアには「○○から△年」が近づくと大きく取り上げ、
その日がすぎるとパッタリ報道をやめる、そんな傾向があります。メディアの中にいた人間からすれば、
そうしたことにはやむを得ない面もあるのです。しかし、海岸林再生の現場は、「記念日」に
関係なく存在し、「記念日」に関係なく人を必要としています。そして、そこを訪れれば、
「記念日」に関係なくさまざまなことを考えます。被災地の現場が持っている意味は、
6年たった今も、これからも、なくなることはありません。