10月24日(水)の国際フォーラムのパネリストになる
地元農家の高梨さんの紹介でもあります。
2011年8月12日、高梨さんから忘れられない情報が入った。
「やっと愛林の碑をみつけた。しかも(津波で)倒されていない」と。
ビニールハウス団地の北はずれにあったこの石碑のことは、
地元の人たちと会うたびに話題になった。
しかし、みんな「海には行ぎたぐねっ」と言っていた。やっぱりまだ怖いから。
そんな会話をしていたから私はその連絡に驚いた。
高梨さんは、真夏のさなか一人で、高さ2m以上の葦原を掻き分けて探したはず。
2度目のチャレンジだったと思います。
その前の日、私は仙台・名取にいた。
県や種苗組合などと会議をして、訴えていた県種苗生産講習会開催と、
我々の基本コンセプト細部の理解が得られ、
いよいよプレスリリースに踏み切ると宣言した日だった。
だからその翌日の高梨さんの、この行動。これは本当に嬉しかった。
2011年5月24日の東北森林管理局仙台森林管理署での話し合いの中で
署長さんが使った「愛林組合」という言葉が、とても印象に残った。
戦後も、地元の人は組織的に海岸林に関わっていたことが分かったからだ。
のちに、その言葉がもとになり、「名取市海岸林再生の会」設立に繋がった。
高梨さんと初めて出会ったのはその日の午後だった。
我々にとっての初めての被災地住民との話し合いの場で。
高梨さんたちは、自分の子どもの頃からの、マツ林との関わりを話した。
その日の晩に、名取市の居酒屋で、高梨さんをはじめ、鈴木さん
(再生の会会長)、森さんからさらに詳しく聞いた。
公民館長として地元史の編纂に関わった鈴木さんからは小冊子を頂き、
そこにも愛林碑や、昭和20年~30年前後のマツ林にまつわる記述があった。
初めて会う我々に、しかも被災して2ヵ月しかたっていない体育館の避難所暮らしの環境の中、
こうも明確に、良い収入になるわけでもない海岸林再生を誓った訳を
私たちもだんだんと理解していった。
「愛林碑」の碑文はまた後日。
石碑の後ろには、会議にきた人たちの祖父の名がたくさんあったのだ。
初めて見た名取市広浦の「愛林碑」(撮影:2011年9月6日)
この場所で津波に倒されなかったことに巡り会わせを感じた。