広報室倉本です。
月刊誌でお馴染み、オイスカに関わる会員さんやボランティアさん、職員などをご紹介するコーナー「われらがオイスカ!」。
今年3月号では、オイスカ宮城県支部副会長の矢萩保雄さん(今年入会40年となる株式会社ユアテックの相談役を務められ、矢萩さんご自身も2019年に個人会員で入会されました)にご登場いただき、タイ北部でのツアーの体験や、何度も現場で汗を流した「海岸林再生プロジェクト」への思い、東日本大震災当時、東北電力に努められていたご自身の震災10年を迎えての振り返りなどを語っていただきました。
誌面でも設けられたスペースにぎっしりと、その熱い想いをご紹介しましたが、実はそのスペースに収まり切れないほどたくさん語っていただいており、泣く泣くカットした部分が多くありました。
今回は、その中の特に東日本大震災への振り返り部分について、全文を改めてご紹介します。
東日本大震災から今年で10年となりました。当時私は東北電力に勤務し、新潟支店長の職にありました。
東北電力管内は、東北6県と新潟県を含めた7県を電力の供給エリアとしています。
東北および新潟は自然に恵まれていることと背中合わせで、雷害、雪害、地震・津波などの災害が多く、また、カラスの営巣による鳥害、台風などによる風水害、塩害などにも見舞われ停電も多発し、私の会社人生は自然災害とともに歩むことになりました。
経済の発展とともに、電気の安定供給についての要求が厳しくなり、一時も停めない、また停まった場合は一刻も早く復旧することが求められるようになりました。
私が最初に停電復旧の責任者として関わった自然災害は、1994年12月28日21時19分発生の三陸はるか沖地震でした。その日は仕事納めでそれぞれが一年の苦労を癒しゆっくり過ごしているときでした。その時から、お客さまが楽しみにしている31日の紅白歌合戦まで電気を復旧すべく戦いが始まったのでした。その後も地震、水害、台風と大きな災害に見舞われました。2004年の新潟県中越地震、2005年の新潟下越雪害、2007年の新潟県中越沖地震そして2011年3月11日の東日本大震災と続いています。
私はこのような大規模な自然災害と遭遇するたびに、いかに被害を少なくするための設備を構築するか、被害にあった場合はいかに早期に復旧するかを考えるようになりました。
先人が開発したものも含め、この中で生まれたものが、設備では難着雪電線、電柱基礎部の補強などでした。機動力では高圧応急用電源車、空輸対応型応急用電源車などでした。システム対応では、事故・停電管理システム、地震被害推定システムなどでした。ここでは数ある中から主なものを紹介しました。一方、これらハード面もさることながら、さらに重要と思われるのは復旧に携わる人の使命感や技術力です。
電力業界では2000年に電力市場自由化が実施され、電気料金低減に向け業務の委託化・請負化が急速に進みました。その結果、社員の停電時対応力が低下し、使命感も薄れるといった危機的な状況が発生しました。この課題克服に向け、工事会社への出向、技能競技大会の開催、非常災害訓練などを繰り返し実施しました。これら施策の背景は、訓練等でできないことを本番ではできないことを多くの場面で経験したからです。また、停電事故の4分の3は夜間休日に発生します。なぜなら私達が会社に勤務するのは2000時間あまりですが、年間は8760時間あるのです。この夜間休日の停電事故復旧を社員自ら実施することにより、迅速復旧と使命感醸成、技術力強化に役立ちました。
新潟県中越沖地震では、施策が奏功し約4万戸の停電を2.5日で復旧することができました。
さらに、4年後の東日本大震災においても、かつてない約486万戸の停電が発生しましたが、3日後に80%の停電を解消しています。
今後も、この経験を若い人に伝えて、対応能力の向上を図ることにより、多くの人が安心して暮らせる世の中になればと思っています。
これからも2019年に甚大な被害を及ぼした台風15号、19号に見られるように、日本では大規模自然災害が多発します。
一因として地球温暖化が影響しており、これらの対応として国は2021年1月の首相施政方針演説でグリーン社会の実現を掲げました。
オイスカの地球規模での植林活動は自然災害の減災も含め私たちが直面する課題の解決に大きく貢献するものだと確信しています。