広報室倉本です。
コロナ禍で渡航が叶わず、再赴任までの間、本部事務所で勤務されているパプアニューギニア駐在代表の荏原さん。すぐ声掛けができるのを良いことに何度も現地でのお話を催促したところ、またもやブログを書いていただくことができました!(昨年も、〈ラバウルで使われている貝のお金(タブ‐Tabu)その1〉についてブログを書いていただいています)
今回は、パプアニューギニアとパラオで使われる日本語についてです。知識として、なんとなく2つの国と日本が深い関わりがあったことを知っていても、実際にそこで生活された方からお話を伺うと、より興味深く感じますね!
※カエルとカタツムリが映っている写真があります
以下、荏原さん
パプアニューギニアのラバウルで、カタツムリは“デムデム”と呼ばれています。
全身茶色で殻の大きさが4センチ位、頭からしっぽ迄は7~8センチ。第2次世界大戦中南洋ガエルと共に日本軍人の貴重なタンパク源であったと聞いています。ラバウルの人たちは道路脇に茂っているススキを刈る仕事をするとき、このデムデムを集めてランチに食べています。豚の大好物でもあります。
このデムデムの呼称は日本からラバウルに渡ったのか、ラバウルから日本に来たのか?長らく考えていましたが、この度ネットで調べたらこの童謡が出来たのが明治44年(1911年)と分かりました。ですから間違いなくデムデムの呼称は日本からラバウルに渡ったもので、日本軍人から彼らに伝わったものです。でも現地の人の耳には”デンデン”ではなく“デムデム“と聞こえたというのは面白いです。
1993年からオイスカの開発団員として住んでいたパラオでは、沢山の日本語がパラオ語になっていました。私がパラオにいたころメモを取っていたのですが、300単語以上書き留めた事を覚えています。
その中で今も覚えている言葉があります。“バイキン‐ばい菌“、”センキョ(選挙)“、”アバレル(暴れる)“、” ツカレナオス(疲れなおす)“、”ハンケツイイワタス(判決言い渡す)“キュウリ(胡瓜)、”ナスビ‐(茄子)“、”ダイジョウブ(大丈夫)“、”ダメ(駄目)“等々が思い出されます。
パラオ人の名前にも日本人の名前が沢山、老若男女を問わず付けられていました。”ヨシコさん“、”テツオさん“、”ミノルさん“、”ヨコハマレストランのツルコさん“、“キクエさん“、”ケイコさん“、“キンタロウさん”、”ヨシオさん”等々。
さすが、日本が第1次世界大戦後30年間統治し、尋常小学校まで現地に建てて教育を提供した国だと思います。日本語が話せるお年寄りの日本語はとても優しい標準語の日本語でした。日本の事を“内地”と呼び“、いつか一度内地に行ってみたい!”と、口癖のように話してくれました。
日本の統治時代と戦後国連のアメリカ信託統治領で生活された、パラオの元副大統領を務めておられたアルフォンス・オイテロンさんは私に話してくれました。“日本時代日本人はパラオ人に”規律“を教えてくれた。戦後アメリカは”自由“を教えてくれた、今の若者は自由を楽しんでいるが、振り返って見ると日本時代の方が良かった”。昔を懐かしむ思いから出た言葉なのかもしれませんが、社会と家族の中で秩序があった時代の良さを知っている方の言葉は重いと思います。
それに引き換え、ラバウルのお年寄りの日本語は命令形の軍隊用語。“コッチニコイ!”ハタラケ!“、”ハヤク!“、そして”バカヤロウ!“等々。当時青年であり使役に使われた爺ちゃんたちですが、それでも憎しみを込めて話す人は全くいませんでした。
”ポッポッポ鳩ポッポ”、“もしもし亀ヨ亀さんヨ”、は爺ちゃんたちが酔っぱらった時、村の青年たちに披露する定番の歌でした。戦後75年が経ち、残念ながら今はほとんど日本語を話せる方と会うことはできません。それでもJICAなどの日本の青年たちも頑張って業務にあたってくれているため、今でも日本人に対して敬意の念がラバウルの若い世代にも受け継がれている事は嬉しい事です。