本部・海外事業部の藤井です。
コロナ禍が続く毎日ですが、海外の現場では新型コロナウィルス対策の取り組みが
各国で続けられています。その様子は、こちら↓のページからご覧ください。皆さまのご支援、ご協力宜しくお願いいたします。
今日は、先日のブログ「それぞれの連帯のかたち」の~番外編~として、今回のコロナ禍でなく、数年前のミャンマーでの出来事についてご紹介します。
自分が”連帯”という言葉を耳にして、真っ先に思い出すミャンマーでの出来事があります。
それは、自分が現場での緊急支援活動に最前線で関わり、その後、日本での大きな災害の時に、逆に日本人として支援を受けることになった出来事です。
以下、月刊「OISCA」2014年4月号にて紹介された記事からの引用です。
オイスカのネットワークで広がる相互支援の輪~助け合いの絆~という特集内で、東日本震災後、オイスカのネットワークを通して海外から次々と支援が寄せられたことを紹介した中の、私の文章です。
「日本の方から受けた恩を忘れたことは一度もない」 海外事業部 藤井啓介
東日本大震災は、私がオイスカ・ミャンマー農林業研修センター駐在中に起きました。発生直後からニュースで被害が大きく報じられ、地元の友人、知人たちは連日、私の家族やオイスカの関係者の安否を心配して、声をかけてくれました。
そのような中、あるスタッフから、自分たちにも何かできないかと相談されたのです。その夜の定例ミーティングで私は、「支援の額や規模の大小は問題ではない。皆さんの思いや行動が、多くの被災者を励ますことは間違いないと思う」と話をしました。
彼らは自主的に寄付金を集め始めます。スタッフ自ら寄付をするとともに、活動地周辺の村にも支援の輪を広げていきました。やがて日頃お付き合いのある人たち、故郷に戻っている研修生OBたちも続々と寄付金を届けてくれました。
驚いたのは、2008年に甚大な被害をもたらした「サイクロン・ナルギス」の支援を行った時の被災地の人たちがセンターを訪ねてきたことです。ナルギスは、カテゴリー4の巨大なサイクロンで、ミャンマー、スリランカ、インドなど5か国に被害が及びました。「あの日以来、オイスカ、そして日本の方から受けた恩を忘れたことは一度もない。その日本が大変だと聞いて、どうしても届けたいと思った」と村で集めたお金を手に、遠い道のりをわざわざ来てくれたのです。彼らの熱い支援を受けて、あらためて私たちが取り組んでいる国際協力活動の意義を実感しました。成果として数値化、可視化はできませんが、活動を通じてお互いを思いやる関係を日本とミャンマーの人たちは築いてきたのだと思いました。(記事ここまで)
※以下のオイスカニュースでも、上記のミャンマーからの支援について取り上げています。
<第13報>東日本大震災:ミャンマーから新たな支援が!
2008年の「サイクロン・ナルギス」の被害は、主にミャンマーだけで死者・行方不明者約14万人といわれる大災害でした。当時、被災地に足を運んで見た、あまりに悲惨な光景は今でも頭から離れることはありません。
我々が支援した方達は、あまりに多くの被災者のほんの一部だったと思います。当時のミャンマーが置かれた状況から、国際機関等による支援や国の復興支援も限定的にならざるを得ませんでした。
それから約3年後、「サイクロン・ナルギス」で被災した方達が、相互支援の気持ちで、日本が東日本大震災で困っている時に手を差し伸べてくれたことに、当時の私は、ただただ頭を下げて感謝の気持ちを表すしかありませんでした。その時、支援を届けに来た村の代表は、私の態度に驚いた様子で、「友人が困っている時に手伝うのは当たり前のことだから」と声をかけてくれたのです。それは、まさに”連帯”の気持ちから出た言葉だったと思っています。
当時、緊急支援後の被災した農民の復興支援の為、(通称)オイスカ米(※オイスカがミャンマーで普及している水稲品種)の種もみ配布と、栽培指導を行いました。
今でも、当時支援をした地域でオイスカ米は大切に栽培され続けており、農家に喜ばれていると聞いています。