広報室の林です。
本部事務所の棚にはこんなアルバムがあります。
私の同期Yがつくった、年ごとの活動の写真を
まとめてある「俺のオイスカ史」。
そこから名前を拝借し、昨日聞いたフィリピン・ネグロス島の
バゴ研修センター 渡辺重美所長のお話(主にはNGO連携無償資金協力で
取り組むプロジェクト ネグロスシルク事業を基盤とする養蚕普及全国展開支援事業)
をもとにオイスカ史を綴ってみました。
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== なぜフィリピンへ? ==
東京農業大学の農業拓殖学科を卒業。
在学中に友人から、オイスカという団体がインドで農業を行っている話を聞いた。
岐阜県の恵那で農家の三男として育った私は、「憧れの海外へ」との思いから、
話を聞きに本部事務所を訪ねた。篤農家を現地に派遣して
地域の農民と一緒に農業に取り組んでいることを知り、
「卒業したらぜひインドへ」との誘いも受け、チームの一員として
インドへ行くことをその場で決めてしまった。
それなのに、3月末の卒業後、「来月末にフィリピンへ行ってくれ」と(笑)。
ルソンでしばらく研修したのち、ミンダナオの農業大学で
実習指導を3年行い、その後ネグロスに移って以来、
今までネグロスで活動している。
今は亡き池田廣志さん、現在もミャンマーなどで
活躍をされている岡村郁男さんの下でトータル5年活動した。
「開発とは」「オイスカマンとしてどうあるべきか」
といったことを教えてもらうことができたラッキーな5年だった。
== なぜ養蚕?? ==
ネグロスで活動をしていると、炭焼きをしたり、
バナナやキャッサバを育てて収入を得ていた貧しい農家から
「もっとよい収入になるものはないか」と問われ、また
自分自身も彼らの生計向上のために何ができるのかを考えていた。
フィリピンは稲作が盛んで、特に当時はマルコス大統領の
食糧増産政策もあり、ネグロスでも稲作は盛んだった。
自分自身も農家で稲作をしていたが、小学4年生までは
稲作が終わると家で蚕を育てていた記憶もあったし、
戦後の日本では、200万戸の農家が養蚕に取り組んで収入を得ていた。
また、フィリピンの正装である「バロンタガログ」は
縦糸に硬いシルクを使い、横糸にパイナップルやバナナの繊維を使っている。
それはシルクの需要があるということ。
桑の栽培から始め、養蚕に関しては日本からの技術者に協力を得ながら
少しずつ農家を育て、技術を確立しながら普及させてきた。
②につづく。
次回は養蚕事業の今をお伝えします。