400年前に戻ってしまった沿岸部
プロジェクト担当の吉田です。
先日、生態学関連の視察団を受け入れたとき、東北の国立大学教授が
「津波で400年前の姿に戻っちゃったんだね」と。
その感覚。その通りだと思いました。
実は我々チーム海岸林のメンバーの間では、聞き慣れた言葉です。
ここは、名取市広浦南側。
一面の砂丘になってしまいました。
幅は500m以上あります。
元は海岸林(国有林)がありました。
そんな所でもクロマツは自分で生えてきます。
ここは名取市北釜地区。
地盤沈下し、昨年夏の台風以来、ずっと水が抜けません。
一面の葦原になってしまいました。
元は海岸林の後背地で、大勢の人が所有する
一大ビニールハウス団地がありました。
おそらく、再度農地として復活すると思います。
名取市など仙台平野の沿岸部は、伊達政宗公の治世以前は
湿地帯だったと思います。古地図を見ると、池、沼地だらけです。
大雨の後は水が抜けにくく、仙台空港としても悩みの部分であると
聞いた事があります。
そのため水運目的の貞山堀や、数々の小運河、堀などが開墾と並行して
作られたのだと思います。
プロジェクト担当の吉田です。
7月8日、防潮堤工事現場を見てきました。
休日のこの日は工事も休み。
目下、全力で工事が進められ、ダンプは名取だけで1日250台。
(土砂・石材の搬入のために50台の10tダンプが最低5サイクル)
沿岸部では非常に多くのダンプが通ります。
釣り人を見かけますが、普段は完全立ち入り禁止です。
私も4月末に国交省の許可を得て見て以来、ここには入っていません。
その時と大幅に姿が変わって釘付けになりました。素直に、壮大な工事に見えました。
おそらく一部を残し、一年で完成するでしょう。
無事故のまま、進んで欲しいと思いました。
名取市北釜地区(撮影日 上:2011年5月24日 下:2012年7月8日)
第1育苗場の苗の様子
プロジェクト担当の吉田です。
7月7日、残念ながら雨の中でしたが、
世界防災閣僚会議in仙台の専門家ワークショップ一行約30名を
被災海岸林、工事中の防潮堤遠望、現存する全壊住居、地盤沈下した
ビニールハウス団地跡地、オイスカ第1育苗場を案内しました。
写真は大雨が降る前日の様子です。
手前4列がクロマツ、その向こうはマツでなく、「枝豆」です。
今日、種苗組合の金澤専務がお見えになって、
「前からやっているプロと全く同じ成果」と評価していただきました!
東京でなく、こっちに来いとも言われ・・・(苦笑)
↑今年の3月に播種をしたクロマツの苗 ↑4月に植えた1年生の苗
この日は、第1育苗場班長の大友さんや、杉が袋北地区の森さん、
現場統括の佐々木さんと「とんちゃん」(ホルモン焼き)でした。
その後は、経費節減のため、いつも通り、佐々木さんと事務所横の休憩所に泊りました。
これがいいんです。
事務環境整備も軌道に
インターンの秋山君がフィリピン・ネグロス島での活動を体験するため1ヵ月不在です。
振り返りブログ5 『チリ地震津波における防潮林の効果に関する考察』
震災直後、原発の問題や余震もあり、業務途中で会議室に職員が集められて
帰宅指示が出たり、アポ先から面会を延期したい旨の電話が入ったり、
乗った電車が止まったりと非常に不安定な日々が続いた。
3月17日に林野庁に文書を届けて以降は、一転して、
静かにひたすら海岸林の資料や論文を読み漁る日常が始まった。
私は日本の海岸林については駆け出し。
海岸林が何故、何のため、人の手で作られたのか、ごく基本的な事を知る必要があった。
中でも繰り返し読んだのが、昭和35年のチリ津波から一年で出された
ブログタイトルの報告書(宮城県農業試験場・佐々君治山報恩会 1961)。
忘れられない資料である。宮城県が出したものをネットで拾った。
書いた人達の無念や悔しさ、後世に必ず役立てるという必死さ、
海岸林への愛情を持って、プロとして渾身の力で書いた迫力が冒頭から伝わってきた。
震災直後は直感でしかなかった海岸林の有用性は、
今の言葉で言えば『減災』にも資するのだと確信した。
「庄内海岸のクロマツを讃える会」の資料にも衝撃を受けた。
昭和30年代、三世代が大きな一つ傘の下で一家団欒の食事する白黒写真が
残されていることに、撮影した人の思いを感じた。
ちょっとした隙間から家の中まで砂が入るという信じられない光景。
大事なご飯に砂が被ったらどんなにガッカリすることでしょう。
もし気付かず歯で噛んでしまったら、それは堪える。
沿岸に住む人達の、風と砂との長い戦いの歴史に、
自分の関心はフォーカスされていった。
APECで小泉元総理がシンガポール首相から質問されたという、
和歌山県田辺市の濱口悟陵氏の足跡もネットから探した。
大まかに言って、この頃得たのは、日本は海と海岸林に囲まれており、
日本には日本の、世界には世界の海岸林があるのだという全体感。
特に、艱難の末、社会のインフラとして人々の手によって作られたのだという歴史観。振り返ると行動指針を定める重要な過程だったと思う。
また、阪神大震災の緊急支援の渦中で感じた我が職場の限界や、
餅屋は餅屋、長期復興支援こそオイスカ本領発揮の場との思いを強くしていった。
5月24日に初めて陸上踏査に入るときはまた、
この報告書はお守りのように、鞄の中に入っていたと思う。
ビニールハウスが完成しました
振り返りブログ4 最初のアクション
振り返りブログ1の起案の瞬間でも少し触れた林野庁への協力申し入れの文書提出
に関する振り返りをしたいと思います。
2011年3月14日、東北森林管理局に電話を入れ、海岸林の再生に対する我々の考えに
ついて相談しました。震災から3日後のことです。
その上で、林野庁に対して、「海岸林の再生に関する協力」を申し入れる文書案を書き、
オイスカ内の所属長と代表理事の了解を1日で取り、東北森林管理局に文書チェックを
依頼、代表理事から林野庁本庁幹部へのアプローチを開始しました。
そして17日、林野庁に海岸林の再生に関する協力の申し入れを文書で行いました。
その骨子として
①国、自治体の復興計画への協力
②国の予算に頼らない民間活力導入
③国内外の市民による参画。
などを挙げました。
当時は海岸林の被害のデータもなく、全体像が不明だったものの、緊急支援、生活再建
の後、必ず再生に向けた長期復興支援的国民運動が求められるという確信がありました。
印象に残るのは、14日に申し入れ文書を最初に見てくださった東北森林管理局の回答
の早さ。既に電話で感触は得ていたものの、トップの了解を経た『当局として異議なし』と
のメールが1日で折り返されたことには驚きました。
その頃、東北森林管理局では、窓口の方をはじめ、職員総動員で自らハンドルを握り、
トラックで奥羽山脈を越え、全力で救援物資を運んでいたそうです。
二年前の学校林サミットで知り合い、能代で、秋田で飲み明かした『御縁』あって、
直感に従い、思い切って電話することができました。
御縁の有り難さと、運の良さを今でも感じます。
少し震えながら電話したことを忘れません。
宮城県主催「海岸林再生キックオフ植樹」
プロジェクト担当の吉田です。
神奈川県出身のくせに、近くて遠い湘南海岸に『仕事』で行きました。
ほんとに随分高い木になったと、つくづくそう思いました。
名取では防風林と口々に言いますが、ここ湘南海岸のクロマツは、元県民の個人的な印象は『砂防林』。
江ノ島辺りから大磯までの全長11.4km、85.2haに、県土木事務所が管理し、上層木がクロマツ、中層がマサキ、トベラ等を主とする海岸林があります。
前浜には堆砂垣と低木、その背後に5m程の防風ネットに囲まれた海岸林があります。
まず、防風ネットがあること自体が驚きです。(相当効果があるでしょう)
海岸林の幅は狭いです。
飛砂と強風の凄さを子供の頃、親によく連れて行ってもらいながら感じていました。
砂に埋もれる堆砂垣。防風ネットのみならず、木の幹にも雨と共に吹き付けられた砂がこびり付き、歩いていると、木の上から砂が落ちてきたことにも驚きました。
今年4月初めの暴風の折は、箱根駅伝往路3区、復路8区で登場する砂防林の真ん中を走る国道一号線に、道路には飛ばされた砂や、風で折られた松の頂の新しい穂が一面覆ったそうです。
昭和40年代と、60年代にクロマツの下層に導入された広葉樹がその後どうなっているのか視察するのがそもそもの目的でした。(さすが清藤先生。目の付け方が違う)
マサキとトベラは九十九里でも三重県、和歌山県でも、宮城県でも海岸林に適していることを確認済みですが、40年を経ても上層たるクロマツを越えて育つことなく、中層を吹き抜ける風や砂を遮る効果をみせます。
昭和60年代、その他諸々の広葉樹を植えた場所では、今は一本一本、木の頭を飛ばして
(伐って)上に伸びないよう止めてあり、私には造園の世界に見えました。
管理に働く方達の努力、県の現職の方が今存在するものを最善の努力をされていることは、歩けば目に入る様々な跡からよくわかります。
しかしながら、広い面積を扱う造林と、造園は違うと私は思います。やはり一本一本頭を飛ばすなどのコスト高が気になりました。将来設計の大切さ。どういう姿になるのか、したいのか。イメージを持ってこれからもこの仕事に臨みたい。
ちなみに、海岸林丸ごと、伐って欲しいと言う意見もあるような。
某有名大作家もかつて文句を言いに来たようです。伐ったら周囲はどうなるでしょうか?
広葉樹導入の構想を清藤先生と練りに練り、家族が驚く程早い、日の入り前の帰宅でした。
本日の昼飯は、名物『しらす丼』。今日もいずれも悪くない。