この石碑に書かれた歴史は、少なくとも我々にとっては
海岸林再生プロジェクトの推進に確信をもたらし、
プロジェクト案件形成に非常に大きな影響があった。
調べてみると、戦中に荒廃の一途をたどった全国の海岸林。
昭和22年、宮城県南部には17つのいわゆる「愛林組合」が
設立され、当時の営林署の発注のもと、海岸林の造成を
村中総出で行っていたことが分かった。
2011年9月6日、ぬかるみを歩き、初めて自分の目で石碑を見て、
更に歴史の繰り返しの因果を感じた。
以来、足場が悪い時以外には、
できるだけ多くの方に直接石碑を見てもらおうと思ってきた。
30年・40年前まで、煮炊きや風呂の湯を沸かす燃料として、
あるいは食卓に出すきのこを採取する場として、
日々、海岸のマツ林を利用していた生活のことを、
記憶を辿りながら地元の方に話していただくことに深い意義を感じている。
ここに名取市広浦にある愛林碑に書かれていることを記載する。
「愛林」(名取市広浦)
昭和十二年玉浦陸軍飛行場建設に当り農地を買収された北釜部落組合員は台林、
国有林約五十ヘクタールの所属替を受け当時の総代森良三郎氏を組合長とする
北釜開墾耕地組合を組織し、鋭意開墾を進め三ヶ年にして立派な耕地とした。
然し残された国有林のみにては数千ヘクタールに及ぶ名取耕土を潮害より保護するには
若干の不安を感じたので昭和二十三年潮害防備林の補強を仙台営林署に要請したところ
その必要性を認められ、十ヶ年計画の下に萱生湿地帯に盛土工事を施し防潮林を
造成することになった。この工事実施に当っては北釜部落組合員も積極的に協力し
昭和三十 三年十ヶ年にして今日の完成を看るに至った。
抑々この萱生地は明治末期まで鬱蒼たる防潮林であったが年毎の風水害と海水の侵入により
殆どの立木が枯死 し全くの低湿萱生地と化したものである。 
そのため防潮林造成に当っては盛土植栽の外途なく完成までには当局の絶えざる御努力と
組合員の献身的な作業を必要としたのである。依ってこの経過を記録し組合員一致協力して
保護育成に努めその目的を達成すべく茲に組合員の総意により碑を建立し記念とするも のである。
昭和三十四年三月一日建之 大宮貞治書
 
この時も「盛土」をしたのか…….
いまは見る影もない。
おそらく、それほど高くなく、時の経過や
震災の地盤沈下に耐えられなかったのではないか。
全国津々浦々の海岸林造成の厳しさと、ここも同様と感じる。
なお、この間昭和27年・28年に、全国学校緑化コンクールで
再生の会の皆さんが通った、名取市立下増田小学校が
準特選、特選の栄誉に輝き、全国植樹祭で表彰を受けている。
昭和28年は千葉県富津の海岸で、天皇皇后両陛下ご臨席のもと
全国植樹祭が行われ、戦中戦後に荒廃した海岸林の造成が加速した年でもある。
しかし、特選を記念した「学校植林」碑は未だにどこにあるかわからない。
(さっき、学校にも聞いてみた)
我々の育苗場の近くにあるはずなのだが。
*******************
10月24日(水)午後、東京・代々木のオリンピックセンターで開催する
「防災と森林復興に関する国際フォーラム」では、以上の知られざる
歴史的な背景、生活との関わりを紐解きながら、海岸林再生を考えたいと思う。
高梨さん、鈴木会長、佐々木さん、当日はよろしくおねがいします。
cf.ちなみに、こののち、岩沼市であと3つ「愛林」碑を見つけました。
 ということは、宮城南部にあと13の石碑があるかもしれません。

今はまた葦が茂る湿地に戻ってしまっている


 

10月24日(水)の国際フォーラムのパネリストになる
地元農家の高梨さんの紹介でもあります。
2011年8月12日、高梨さんから忘れられない情報が入った。
「やっと愛林の碑をみつけた。しかも(津波で)倒されていない」と。
ビニールハウス団地の北はずれにあったこの石碑のことは、
地元の人たちと会うたびに話題になった。
しかし、みんな「海には行ぎたぐねっ」と言っていた。やっぱりまだ怖いから。
そんな会話をしていたから私はその連絡に驚いた。
高梨さんは、真夏のさなか一人で、高さ2m以上の葦原を掻き分けて探したはず。
2度目のチャレンジだったと思います。
その前の日、私は仙台・名取にいた。
県や種苗組合などと会議をして、訴えていた県種苗生産講習会開催と、
我々の基本コンセプト細部の理解が得られ、
いよいよプレスリリースに踏み切ると宣言した日だった。
だからその翌日の高梨さんの、この行動。これは本当に嬉しかった。
2011年5月24日の東北森林管理局仙台森林管理署での話し合いの中で
署長さんが使った「愛林組合」という言葉が、とても印象に残った。
戦後も、地元の人は組織的に海岸林に関わっていたことが分かったからだ。
のちに、その言葉がもとになり、「名取市海岸林再生の会」設立に繋がった。
高梨さんと初めて出会ったのはその日の午後だった。
我々にとっての初めての被災地住民との話し合いの場で。
高梨さんたちは、自分の子どもの頃からの、マツ林との関わりを話した。
その日の晩に、名取市の居酒屋で、高梨さんをはじめ、鈴木さん
(再生の会会長)、森さんからさらに詳しく聞いた。
公民館長として地元史の編纂に関わった鈴木さんからは小冊子を頂き、
そこにも愛林碑や、昭和20年~30年前後のマツ林にまつわる記述があった。
初めて会う我々に、しかも被災して2ヵ月しかたっていない体育館の避難所暮らしの環境の中、
こうも明確に、良い収入になるわけでもない海岸林再生を誓った訳を
私たちもだんだんと理解していった。
「愛林碑」の碑文はまた後日。
石碑の後ろには、会議にきた人たちの祖父の名がたくさんあったのだ。

初めて見た名取市広浦の「愛林碑」(撮影:2011年9月6日)
この場所で津波に倒されなかったことに巡り会わせを感じた。

なんでいるのよ?

2012年10月10日( カテゴリー: 現場レポート )

プロジェクト担当の吉田です。
地盤沈下し、台風の水と、雪や雨の水が全く引かない海岸林背後の
広大なビニールハウス跡地で2011年11月末に初めて見ました。
以来、冬の現場でいつも会い、何人もの訪問団に引き合わせました。
ですが、今年の4月に入って見なくなりました。
北へ渡ったんだろうな~ と思っていましたが。

9月15日の朝、現場を歩いてたらいたのです。
じゃあハクチョウでなく、コブハクチョウ?
じゃあ北じゃなく、そこぃらか、どこぃらかにいたん??
人慣れしてるので、遠くから泳いできます。
手を出すと更に寄ってきます。
そんなコブじゃ小さくてわからん。
しかも、目の前で、嘴の中の細かいギザギザ見せて、
グゲーって、ゲップを伸ばしたような声だして。
まあいいか。
また、楽しみが増えた。

写真は2月末に会った時のもの

きのこ!?

2012年10月9日( カテゴリー: いきもの, 現場レポート )

育苗場のすぐ横にある事務所の周辺には、チップが敷き詰めてあるのですが、
ここからたくさんのきのこたちが顔を出しています。
どう見ても「きのこ」にしか見えない形のものもあるのですが、ちょっと変わったものも・・・。
↓これが「変わったきのこ」です。

下の写真のきのこの頭がパックリと開くと中には黒ゴマのような黒い種子が入っているのです。
本当に「きのこ」なのか分かりませんが、地元の人たちは「きのこ」だと。
実は、これがたくさん生えていて少し気持ち悪いのです…。

これは「いかにも」なきのこ。海岸に立つパラソルみたい!?

みなさま、こんにちは。
海岸林再生プロジェクトに参加させていただいています
ANA海岸林再生プロジェクトサポート隊(通称:ANAすか隊)の庄司と申します。
※ANAすかとは…ANAがオイスカさんのプロジェクトを応援する
             といった意味合いで名づけたチーム名です。
今回、なぜANAが海岸林再生ブログに参加させていただいたかといいますと
10月7日の「仙台空港 空の日」にANAとして海岸林再生プロジェクトの
「宣伝と募金活動」を軸にしたイベントを行うことを皆さんにお伝えするためです。
さて、ANAとして仙台空港で何ができるのだろうと隊員同士で考えたとき
「プロジェクトの説明だけではなく、せっかくだから松ぼっくりを使って、何かをしよう!!」 
と声があがりました。
では松ぼっくりを使って、いったい何ができるのか…。
★結論★
①松ぼっくりをカラフルに色づけをして募金をしてくれた人に配布しよう
②松ぼっくりの傘を一枚ずつ切り取ってそれぞれを色づけして貼り絵をしよう
この2つの案がそろいました。
松ぼっくりに色づけをする塗料は、ANAの整備の方から、実際に飛行機に使われている塗料を
無償でご提供いただくことになり、隊員たちも大喜び!
作業準備も整いました!!
隊員達は約1週間以上にわたり、毎日機体メンテナンスセンター(飛行機を整備する場所)にて、
松ぼっくり達に色を付ける作業を行いました。

左から順に色を塗る工程

そして色づけが終わった、カラフルな松ぼっくりの数は、なんと全部で約300個!!
この色づけ作業を通じて、隊員たちみんな笑顔♪

完成したカラフルまつぼっくり

10月7日はこのカラフルなANAカラーの松ぼっくり達を募金をしてくださった方々に配布いたします。
配布の様子や、前編ではご紹介できなかった「貼り絵」については
空の日が終わり次第「後編」としてご紹介いたしますので楽しみに待っていただけたら嬉しいです。
ブログをご覧の皆様も、ぜひ10月7日は仙台空港へ遊びに来てくださいね!!

オイスカは、こんなにおしゃれな雑誌に、しかもこんなに大きく
取り上げられたことがあったか?あったかもしれない。
でも、稀。
いつも視察団や多くの人に対して、素朴な説明をして下さる地元農家の
桜井さん。震災直後に農業再開した一人で、「こういう人たちを県は
応援する」とテレビで村井知事が思わず語った一人です。
それを応援する息子、その仲間たち、会社。
そしてオイスカ。
みどりの再生だけでなく、海岸林の必要性だけでなく、
私たちも何より人間ドラマを伝えたい。
10月5日、本日発売開始。
是非ご覧いただきたい記事です。こちら→ソトコト

ネズミの…

2012年10月4日( カテゴリー: 現場レポート )

育苗場にたくさんのネズミのフンが……。
というのは冗談ですが、以前、防風垣になるようにと植えたネズミモチの紹介をした時に
その名前の由来は秋になる実がネズミのフンに似ているからだと書きましたが、その「実」ができてきました!
これ!見てください。

本当にネズミのフンみたいだと思いませんか??
乾燥するとますます本物らしくなります。
やっぱり、言われていた通りなんだなぁと変に感心しているところです。

まだ緑の実


ネズミのフンになった実

今月は、二つの大きなシンポジウムが予定されており、その準備を進めているため、昨年のことを思い出しました。
震災からしばらく経った2011年6月・7月は、震災に関する実にさまざまなシンポジウムが開催されていた。
社会の動きとはこういうものなのかと今でも印象に残る。
私たちはあくまでも現場での実践に主眼があり、シンポジウム準備を通じて必要なネットワーク、
大きな「チーム海岸林」を生み出せると判断して開催した。
今でもそのネットワークが「核の中の核」であることは間違いない。
シンポジウムで、我々の考えるプロジェクトの一端、
すなわち「木を植えたくても苗木がない」「苗木の生産者も足りない」との事実に基づき、
被災地農家の技術を活かし、まず、生計支援を兼ねて苗木を生産するという基本骨子を発表した。
当日、フル参加いただいた皆川芳嗣林野庁長官(現農林水産事務次官)と、
「東日本大震災に係る海岸防災林の再生に関する検討会」座長の太田猛彦先生が
「オイスカは苗木の事によく気が付いた」との立ち話をオイスカスタッフが聞いたという。
林業に関わる人であれば、今の世で木を植えることが仕事としてのボリュームが極めて少ないことは体がわかっている。
また、これまでの航空調査、陸上踏査を元に非常に広範囲で極めて甚大な海岸林の被害を映像で伝えつつ、
海岸林が残った場所は、「周りと比べて若干高い」特徴があることも報告できた。
地下水位が非常に高い地域では、深根性のクロマツの根の特徴を活かすには「盛土が有効」と発表できた。
また、皆川長官が「海岸林再生に民間団体とも協働する」と対外的に初めて発表したのはこのシンポジウムだったと、後日聞いた。
オイスカにとって、プロジェクトの内容のプレスリリースは、この先の9月であったが、
何よりも、「オイスカはやるのだ」との決意を、国内外に発信した意味は大きかった。
中野利弘理事長が得意のアドリブで、「三本締め」して幕を閉め、応じてくれた聴衆の方の表情と全体の雰囲気は忘れられない。
国連事務総長からも3日前に、前触れなしにビデオレターが届き、翻訳以前の「開封」ができず、
同時通訳の方まで冷や汗をかかせた。私たちは基本的に国際協力NGOで海外への発信は義務に近い。
外国人向けにも聴講を呼びかけたため、資料の翻訳作業も加わった。
暑い中、休日返上で無言で手伝ってくれた職員、間際の翻訳にも嫌な顔一つなかった林野庁職員の顔を思い出す。
2011年4月4日に林野庁長官、次長に初めて面会した時に提案し、その場で決まったシンポジウム開催で、
本当に厳しい突貫工事だった。大きな会場を確保したものの、聞きに来てもらえるかの見通しはない。
しかし、後援団体など各方面には実質的な協力をいただいたおかげで、オイスカ職員を除き、353名に聴講いただくことができた。
その中には、大型バスで参加し、その晩はオイスカ本部の大広間で修学旅行のように大騒ぎして、
揚句「雑魚寝」していただいた名取市の被災地住民約40名が含まれ、その大半の方と今も育苗を共にしている。
私は寝る場所がなく、仕方なく屋上で寝た。
いろいろな布石を打つことができたシンポジウムだった。

9.15踏破ツアーで得たこと

2012年10月2日( カテゴリー: 本部発 )

プロジェクト担当の吉田です。
この1年、いつも将来の姿を想像してきました。
海岸に出す苗木を梱包する姿、
人工盛土の上で植林の準備をする姿、
植林を楽しみに全国から仙台空港に来る人の姿、
草やツルを刈る姿、どんな静砂垣なのか、盛土の形は?
ロジスティック面で言えば、みなさんにどうやって現場に来てもらおうか?
現場は多々の荒野。トイレも、自販機も、コンビニも、路線バスもない。
工事車両がさらに増え、立ち入り自体難しくなる前に、
一つのパターンを試してみよう。
ある会社の若い従業員とワイワイ企画を練っているときに、
うっすらとあったこの企画の姿がはっきりしました。
大人数で体感すれば、私たちと感覚をシェアする人も増える。
迷わず目的地に行ける人が多いのと少ないとでは、現場のまわり方が違う。
そういう繰り返しで、大きなチーム海岸林を作るのが夢です!
また、プロジェクトの規模感を理解するのに、
車で行くのと、歩くのでは全く理解度が違います。
某大企業の重役の方が、前回バスで回った時との比較を
最後に更に駅まで25分歩く中で話してくださいました。
いつもは現場を歩くとすれば、ただ一人、無言で歩く事も多いです。
今回は88名と歩き、初めて会う方と話しながら、話を聞きながら、
皆さんの表情を見ながら、いつもよりはるかに多くのことを感じました。
主催者ではありますが、歩く、話す、感じるという点で、参加者にもなれました。
今回のように、多少厳しくても、上げ膳据え膳でない、
五感を使う仕事をやりたいと思いました。
現場の仕事に関しては、イベント化したくないと思っています。
ロジ面の収穫も大きかったです。
縦長になるのは誰でもわかるが、100人がこの場所、この距離を歩くと
どうなるか、必要時間も把握できたし、我々に足らないことも分かった。
3連休初日にバスで来る場合の所要時間や渋滞程度も。
また、いろいろなケースのノウハウを蓄積しなければなりません。
正直なところ、皆さんが帰った後、名取事務所の佐々木廣一統括の
充実した表情が本当に印象的でした。
そこで初めて、成功したのだなと思いました。
ご参加いただいた皆さんを、必ずまたお迎えしたいと思います。

ご協力のお願い

2012年10月1日( カテゴリー: 本部発 )

プロジェクト担当の吉田です。
地元ではPTAで学校創立30周年記念行事のために、子どもたちと地域全体で「廃乾電池」回収による寄附金集め。
母校の大学運動部OB会では、学生や指導陣を支援するための寄附集め。
仕事では奉職以来ずっと寄附金募集と並行して現場に関わってきました。
どこに行ってもお金集め(笑)
おかげさまで、支援者、寄附金ともに続伸しております。
更に頑張らねばならず、皆さんに一つお願いがあります。
もし「海岸林再生プロジェクト寄附金のお願いチラシ」設置にご協力いただける方があれば、
ぜひオイスカまでご連絡ください。
①部数と、②送り先住所、③電話番号、④ご担当者名を教えてください。
これまで、オイスカの会員や全国の海岸林再生プロジェクト支援者、
特に宮城県内の被災地住民や支援者、林業関係者などが設置に協力してくれています。
お知り合いに頼み、店舗受付・窓口や、病院の待合室への設置、
イベントでの紹介などなど、一個人としてご協力いただいており、そのことからも支援者が増えていることがわかりました。
100ha規模に相当する50万本の苗木生産、その植林と育林には合わせて「10億円」が必要です。
大きな額の寄附金を得る努力もしておりますが、今回、私たちにはこだわりがあります。
一人ひとりから小口の寄附を、とにかく大勢から。
今回の仕事を通じて、海岸林について理解のある人を増やしたい。
日本中に海岸林があります。海外にもあります。
多くの人から協力をいただくことが上の上と真剣に考えています。
「寄附を集めることに協力してくれませんか?」
個人にも、企業団体にも、そうお願いし続けようと
チーム海岸林一同思っています。

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