3月8日、県林業技術総合センターより種苗組合を通じて
マツノザイセンチュウ抵抗性クロマツの種子が
昨年同様500g(25,000本分)払い下げられました。
その種子は今、オイスカと名取市海岸林再生の会の事務所の冷蔵庫で保存しています。気温が高いと発芽してしまいますから、種子にとって、「冬」の環境を作って維持・保管しているという事です。
今週末には普通マツ1,000g(5万本分)も払い下げられます。
林業種苗法により、針葉樹の種子に関しては「県→種苗組合→育苗農家」というシステムが定められています。
山出し(苗の出荷/植栽場所への運搬)の時には、種子をいつ、どこから入手したのかという証明書が必要になります。
宮城では「クロマツは3月の彼岸頃から4月10日ぐらいまでに播く」と、震災の年に教わりました。
2012年3月30日に初の播種を行い、「20日で発芽する」と聞いていたものの、
29日もかかりました。寒さで地温が上がらなかったからです。
「芽が出なかったら、佐々木、清藤、吉田 は市中引き回しの上、獄門、打ち首」の覚悟?でいたものの、
4月26日の晴れの育苗場お披露目式は、未だ極寒。
一本も芽が出ていなくて、申し訳なかったのですが、2日後の28日に無事発芽。
そののち6月には発芽率95%と、県の生育調査で確認されました。
今年は、昨年を参考に、しっかり地温が上がる4月中旬に播こうと考えています。
これから現場は忙しさのピークを迎えます。
第一育苗場の隣地に、7畝(約700m²)だけですが拡張させてもらえることになり、
名取を管区としている宮城中央森林組合に工事をお願いしました。
14日、朝から1日かけて10tダンプが30台(6m3×30台)、山砂を運んできました。
ダンプが入れないため、一日だけ防風ネットを取り外し、畑を重機で転圧してダンプの道を作りました。
蔵王山側のネットを外したので、翌朝驚きました。
一晩でこの砂です。
やはり荒野になった土地では飛砂がすごい。
工事が終わったら取り除いて、 窒息しないようにしますのでご安心を。
今の育苗場は、震災後に地主さんが50cm山砂を盛って、自宅菜園をやろうとした土地をお借りしています。地盤沈下していますから、水もたまりやすく、がれきも混入しています。盛土は不可欠です。
今年は、ここで、コナラ、ヤマザクラ、クリ、ケヤキを若干育て始めます。2年後の生産目標として2,500本程の育苗となる予定です。
1月早々から怒涛のような毎日でした。
「ニッパチ」と世間は言いますが、私も何となく落ち着くのが2月と8月でした。
2月は新年度に向けた準備、8月は夏休みも含め、下半期に向けた準備など、
少し先を見ながらリセットする時期でした。
しかし、震災以降は一変。気が気ではない日々に。
そして今年も3.11を宮城で過ごしました。今後もそうなると思います。
3月4日から11日間の出張でしたが、その間何をやっていたかというと、
■訪問団対応4回
■プレゼン4回
■写真展2ヵ所
■スカイプ会議1回
■取材3回
■現場工事1日
■山出し(苗木の出荷・搬送)1回・・・・・・などなど
多くの人の協力のおかげで、何とか乗り切ることができました。
順調にいけば、来年の3.11は植栽目前でハード面の準備が加わることでしょう。
苗木の出荷・搬送、植栽準備作業は、皆さまにも協力を呼び掛けると思います。
万全の態勢で臨めるように、ソフト面については丸一年かけて準備するのです。
その道がはっきりとカラーで見えます。
*平坦な道でなく、明らかに急傾斜ですが(笑)
世間はホワイトデーですね。 育苗場の地主のお孫ちゃんから、地元の人たちがバレンタインデーにプレゼント をもらったので、お返しをしなきゃいけないと朝から騒いでいます。 「金じゃダメなの?」 「金はありえねーべ」 3.11までの嵐のような毎日が終わり、平穏を取り戻した日、 入札を経て、既に植栽が完了したある場所の治山工事を視察しました。 防潮堤工事、排水路工事、治山工事が並行して行われているため、ダンプが多く、 当然一般人は立ち入ることはできません。工事関係者の妨げになってしまいますので。 植え付け直後の姿は、まさに壮観。感動的です。しかし、私には厳しい道のりへの幕開けに見えました。 盛土の上に立ち、吹きつける風を受け、自然の厳しさを改めて感じました。 今までは周りに水田も畑もあり、畔には草も生え、建物も宅地もあり、 風を遮るものがたくさんありました。しかし、今は津波で流されて何もありません。 原野というより荒野です。 現代において、これだけの広大な荒地の中に植栽したケースはありません。 除塩が行われて、農業が再開されると少しは砂も収まるのかもしれませんが。 今回の出張で未知の世界に挑もうとしている技術者の舞台裏を何度も垣間見ました。 冬季の蔵王降ろしによる内陸からの「飛砂」は凄まじいばかり。 今後、トライ&エラーも多々あることでしょう。 植え直しもあることでしょう。我々もその渦中に身を投じるのですから、生半可ではありません。 しかし、当初の考え通り、技術者と一般市民の総力戦、 オールジャパンで乗り切って行こうと呼びかけてゆきたいと思います。
盛土工の上より防風ネットを臨む
←これは、名取市北釜地区の海岸で進められている防潮堤の工事の様子です。今年の3月11日に撮影した写真です。
↓こちらは昨年の3月11日に同じ場所で撮影したもの。1年前はトン袋と呼ばれる文字通り1トンほどの砂などが詰められた袋が積み上げられていたのですが、今はコンクリートブロックが敷き詰められていました。
下の写真は2年前の津波で崩壊した防潮堤の様子です。
写っているのは海側ではなく、内陸側。
(海岸林のクロマツが赤茶色に枯れているのがわかります)
この崩壊は、海からの波ではなく、その波が戻る
「引き波」で剥がさてしまったことによるものでした。
現在行われている工事には、がれきが活用されています。
また、引き波でコンクリートブロックが剥がされないような施工をしたりと2年前の津波での教訓を活かした工事が行われています。
本部・広報室の林です。
昨日、東日本大震災から2年目を迎えました。
昨年に引き続き、経済同友会の皆さんがプロジェクトの視察をされました。
仙台市内から名取の現場に移動するバスの中、林野庁や宮城県の方に
それぞれ、下記のテーマでレクチャーをしていただきました。
「海岸防災林の復旧・再生の進捗状況等について」
「東日本大震災における海岸防災林の被害状況と復旧計画について」
宮城県の方が冒頭、こんなことを話してくださいました。
「宮城県が再生しなければならない海岸林は1000haです。
その10分の1にあたる100haの植林をオイスカさんが申し出てくれました。
しかも植林にとどまらず、育林作業まで計画されていることに感銘を受けました。
どうぞ皆さん、オイスカさんの計画にご支援をお願いします」
そんなふうに言っていただけてとてもうれしく思いました。
と同時に思ったこと。
「やっぱり私たちの役割は、調整役なんだなぁ」ということ。
さまざまなステークホルダーの力を最大限に引き出して、一つの目的の達成に向かい、
それぞれが提供したものを活かしてプロジェクトを運営する調整役。
昔からオイスカは
「お金のある人はお金を 知恵のある人は知恵を 力のある人は力を」
と協力を呼び掛けて活動してきました。
「海岸林再生プロジェクト」もまさしくいろいろな人が提供してくれる
お金や知恵や力で動いています。
それらを最大限に活せるようがんばろうと、気持ちを引き締めた今年の3.11でした。
祝! 初めての山出し
初めて「山出し」を行いました。 要するに「苗が育苗場から植栽現場に旅立つ」ということです。 今月、仙台国有林で行われる植栽の苗の需要に、 宮城県農林種苗農協協同組合の組合員として応えたという事です。 「名取市海岸林再生の会」やオイスカが植栽するものではありません。 また将来は、我々の不足分を他の組合員に補ってもらうこともあるでしょう。 昨年3月30日の播種とともに、1年生苗を購入し、育苗の「練習」を行いました。 今回はプロの種苗農家の指導のもと、山出しの練習になりました。 植栽にあたり、育苗するのも人、植栽現場に持っていくのも人。 今年は練習として600本程度ですが、来年以降は7・8万本。 再来年はそれ以上。うなぎ上りになってゆくことでしょう。 大変な作業が毎年春秋の植栽前に行われます。 支援者の方にも、作業を補佐してもらうこともあると思います。 先々が楽しみです。
今日は海岸ではない砂地での植林のお話。
オイスカはいろいろな国のいろいろな場所で植林活動を行っていますが、この季節日本国民を悩ます「黄砂」の発生源地域のひとつであると言われる中国の内モンゴルの沙漠で緑化に取り組んでいます。
今月21日、都内でその活動報告会が開催されます。
『内モンゴル・沙漠化防止プロジェクト 活動報告会』
~黄砂のふるさとを緑の大地に~
日時:3月21日(木)18:30~20:00
場所:三菱商事 MCForest
参加費:無料
申し込み:こちらのフォームよりお申し込みください
こちらもぜひご参加ください。
3月4・5日と研修生が視察に来てくれたことはすでにご報告しました。
今回現場に来てくれたのはミャンマー、フィリピン、マレーシア、
パプアニューギニア、インドネシア、タイ、チベット、カンボジアの研修生とアメリカ人スタッフ。
第二育苗場でクロマツを育ててくれている「北釜耕人会」の皆さんが
小松菜を育てているハウスで草取りのお手伝いをしました。
「北釜耕人会」の3夫婦は、震災直後からどう農業を再開させようかと考え、
海岸から10キロぐらいのところに土地を借りた行動派の農家の皆さん。
今では震災前のように3夫婦仲良く小松菜を育てています。
農業魂の塊のような皆さんですから、農業研修生の訪問をとても喜んでくださり、
彼らから出される質問にも丁寧に答えてくださいました。
まだ充分に日本語が話せないアメリカ人スタッフがこう日本語で話してくれました。
「宮城の言葉は少し難しくて、
理解できないこともありましたが、
本当に彼らの気持ちはもらいました」
「北釜耕人会」の皆さんの農業にかける情熱、復興への強い思いは充分に伝わったようです。