浜松の三方原内陸防風林
少し前の話になりますが。
日本シリーズ第6・7戦の日、浜松市の「三方原内陸防風林」にも行きました。主目的は、日本海岸林学会の吉崎真司学会長による「浜松市防潮堤・防災林整備」の現地案内があると聞いたためでしたが、同僚の広報室長の話で、地元の「潮避道」「姫街道の松並木」「内陸防風林」の存在を聞き、それはぜひ行ってみようと。
「三方が原」と言えば合戦。小学生・中学生の頃、合戦のオタクでした。新聞・ダンボールで作った「武具」で、他のクラスとよくやりました。みんな友達でしたから、やたら大勢で。先生からは全く怒られませんでしたね。それが高じて、中学、高校のときは、部活の主将だったので、どうやって勝てるチームを作ればいいか考える必要があり、よく合戦の本を読みました。
今になって生きることもありますね。でも、徳川家康唯一の負け戦とも言われる三方が原の古戦場に、クロマツを見に来ることになるとは思いませんでした。
開墾記念碑があり、碑文を読むと、石碑の重厚さも加わり、厳しい歴史を想像してしまいます。
浜松市の北方、天竜川の河岸段丘の上の三方が原は、古来「土質不良」のため「農耕不適」と言われ、
入植以来30年の苦難の末、ようやく農業が出来る土地になったと、三方原開拓農業協同組合によって
昭和53年(1978年)に建立された石碑が語っています。
ネットで航空写真でよく見ると、全長数キロの規模で格子状に区画された内陸防風林があります。宅地も多く、防風林の規模も大きく、
格子状であることも、これが人の手で計画的につくられたことも、まず誰も分からないでしょう。
「遠州の空っ風」から農地を守るためにどうしても必要だからこの規模になったのだと思います。
この規模の内陸防風林は、琵琶湖北部の湖岸防風林を見て以来です。
しかし残念ながら、松くい虫の激しい被害を受けており、「共有林」ですから、地元の人は心を痛めていると聞きました。
宮城沿岸部には、名取市だけに大きな内陸防風林がありました。これも「共有林」です。
県内では、白石市、七ヶ宿町など一部の内陸部にあると聞いたことがあります。
当プロジェクトでは、平成27年度以降、名取の内陸防風林の再造林への協力も打診されています。
チャリティーコンサート結果報告
日墺文化協会 レジーネ・ハングラー演奏会実行委員会事務局長の桶谷 裕人です。
11月20日(水)に開催しました「ウィーンと仙台の歌姫の共演~絆~」は多くの方々をお迎えし、無事盛会のうちに閉幕となりました。ウィーンから来日したレジーネ・ハングラーさんの歌声には皆様大変感動して頂いたようです。地元仙台の声楽の方達も美しい日本の歌曲を披露し、一緒に鼻歌をお歌いになっているご来場者様もいらっしゃいました。当日はオイスカ宮城県支部の亀井会長と小野事務局長、そして名取市海岸林再生の会の鈴木会長にもご来場頂き、壇上で寄付金の授与式をとりおこなわせていただきました。
私事ですが「海岸林再生プロジェクト」にご寄付をする大役もあり、かなり緊張感をもって準備をしてまいりました。演奏会終了後の打上げでは小野事務局長のお隣で酔っ払ってしまいました。
追伸
24日には楽天の優勝パレードを観て来ました!
田中投手・嶋捕手・岩手出身の銀次選手が好きですが、ものすごい人出で近くで観ることができませんでした。
震災から1,000日
あの日から1,000日。
私は今週は東京勤務。
今日は内モンゴルでの沙漠化防止プロジェクトに関する協議等々に4時間もかかりました。
でも、今夜中に来週10日~12日の仙台駅改札前での海岸林写真展の準備を進めないと帰宅できません。
やっぱり、来る日も来る日も、震災長期復興支援が一日の大半に変わりありません。
名取事務所は、月初めの定例業務に追われていたことでしょう。
今日は珍しくお互いに電話もメールもすることもありませんでした。
宮城の支援者から5本ほど電話をいただきましたが。
来年度事業計画案と予算案をつくり、関係部署に提出を終えたのが先週。
正直に言ってほっとしています。
国・県・市の復興計画に沿う事業なので、その進捗や状況の大幅な変化に対応せねばならないため、
全くその通りに行かないことが前提。しかし、それでもつくらないわけにはいかず、
情報収集と、協議を重ねた結果をもとに、11月20日~チームでほぼ2日間缶詰めになってつくりました。
毎年恒例です。
事業計画案と予算案の最後の部分をつくるのは簡単でしたが、
要は、実際にどのように実施するか。
毎日の時間の使い方への反省、力点を置くべきことに力を加えているか、
人と会ったとき本当に一期一会を実践できているか、スケジュールを死守できているか
瞬発力が落ちていないか等々、そういう「棚卸し」もしながら。
胃が痛くなる気持ちも、静かに燃える気持ちも抱えて。
気が付いたら終電がなくなり、そのまま朝までパソコンを睨んでいました。
来年から大仕事が始まります。
勝負事は準備こそ命。
これまでの1,000日は、これからに向けた準備だったのだと思うのです。
これからも多くの方から応援していただけるように頑張ります。
一緒にがんばりましょう。
皆さん、ぜひ名取へ
震災で被害を受けた自宅は改修しても、居住禁止区域に指定されて「年度内に立ち退き」という話をよく聞きます。全て取り壊すことが補助の条件です。育苗場地主さんご家族をはじめご縁をいただいた方々は、いつでも会えるという状況ではなくなってしまいます。同じ自治会だった人も移転先の自治会に入ります。震災直後、名取とのご縁を受けたとき「コミュニティーがバラバラになってしまう」という訴えを聞き、それも立案の重要なキーワードとなりました。「第一育苗場に行けばみんなと会える」「大きな目標として将来の励みとなる」そんな場にしようと思ってプロジェクトを進めてきました。
この写真は、第一育苗場から程近い一軒からの朝の風景です。左上が第一育苗場です。
オイスカ海外事業部の藤井君と、インドネシアからの農業指導を学びに来ている研修生OBと、かわるがわる4日にわたってホームステイさせていただきました。しかし、この家も2月に立ち退きになるそうです。息子さんが昔アメリカに1年間ホームステイしたそうで、いつか我々に対しても何か役に立ちたいと思って受け入れてくださったとのことでした。この方とは出張の度、仙台空港などでお目にかかっていたし、ご主人も4月の床替に加わっていたと聞きました。ご夫妻からはいつもと違う角度から色々な話を伺うことができました。
農地整備事業は津波の影響が少なかった内陸から進められ、写真でご覧のとおり、
波打ち際から約2kmのこの地区まで進められております。
もうすぐ第一育苗場を越えて、海岸林背後のビニールハウス団地にも迫ります。
減反廃止に舵が切られましたが、当地は見るからに大規模農業経営が進むように思えます。
しかし、地下水の塩分の影響が今も尾を引いています。
波打ち際から1.4kmの第一育苗場は作業に使える水脈を掘り当て、数本の井戸を掘ることが出来ましたが、
海岸に近くなればなるほど水が問題になっています。
沿岸部の例にもれず、宮城南部は地下水が高く、第一育苗場は1~2m掘るだけで水に当たります。
昔から排水に悩まされ、周辺地域は水路が多く、排水ポンプ場をいたるところで目にします。
昔は深田で知られ、「苦労するから嫁に行かせたくない」という話もあったそうです。
水はいくらでもあるのに使えないというのは皮肉です。
今年、海から10km以上離れた地区では、この地区では珍しく反当り9俵のお米の収穫があったとのこと。
作柄は豊作のようです。(ちなみにどんぐりは不作)今後沿岸部の水田はどうなるでしょう。
復興には10年はかかると言われていますが、一歩一歩前進していると思うのです。
「名取耕土」と再生の会のTさんが言うような、そんな将来の姿にするための一翼を担おうと思うのです。
視察対応から得ること
11月22日、今日は視察対応の日。
午前中はわざわざ愛知県より犬山市と名古屋市地盤の県議会議員の若い先生(といっても私より少し年上)がお二方。出会った第一印象はフットワークが軽い、というより早い。これぞ「きびきびしている」。1時間半という限られた時間を意識している感じをまず受けました。すなわち、これは「案内の甲斐がある」。とにかく話を最後までよく聞いてくださって、リアクションが絶えない。耳で聞くというより体で聞いている感じ。来訪のきっかけは、太田猛彦先生に愛知県議会議員に講演をして頂いたこととのこと。一連をアレンジした甲斐がありました。
我々にとっての貴重な人脈財産になるように思えました。
午後は、宮城県の各地方振興事務所よりそれぞれ農林関係の次長さんが合計8名。
私には予想外のアドバイスあり。
「宮城県のあるところで、海岸林植栽をしたばかりの現場で、ある日突然、片っ端から伐られてしまった」と。伐られた時期からして、「門松」にしたようで。驚いているのは私だけ?「そうやってひと儲けする奴もいるんだよなー」と佐々木統括。門松にするためのマツを植えているのは昔見たことがあるけど。しかし、山ではない、海岸のどこからでも入れるあの現場では、防ぎ様がない。心配事は尽きない(笑)
人に会えば会うだけ、貴重な情報が得られますね。人脈や情報は命です。地元新聞の記者さんからのアドバイスの通り、「一期一会」の気持ちでお迎えできるよう、心を整えたいと思います。。
温かい場所・宮城県名取市!!
四国研修センターの吉田智子です。
11月19日~21日の3日間、研修生と一緒に宮城県名取市で行われている「海岸林再生プロジェクト」の視察に行ってきました。視察では育苗場の見学、苗の草取り、北釜耕会の方の畑で小松菜の片付けや播種をさせていただきました。
期間中は北釜耕会の会長櫻井さんの家にホームステイ。震災の話や農業についていろいろとお話を聞かせてもらいました。
初め震災の話をどう切り出そうかと考えていた私に、櫻井さんは震災の写真を持ち出し説明をしてくれました。津波から逃れた後、仙台空港で2日間の滞在。その後3ヵ月の学校での避難所生活。仕事をしなくても食事の援助があり、体を動かさないあまりなんと体重が10㎏増えたそうです。避難所生活や仮設住宅での生活は何もしなくても生活ができるけれど、「農業をもう一度したい」という強い想いから震災1ヵ月後に農業を開始しました。
震災後、農業をしなくなった人もいる中で、3人で立ち上げた北釜耕人は「小松菜」を栽培しています。視察期間中、一緒に「小松菜」の片付けや播種、機械の操作もさせてもらいました。農作業中は農業に対する熱い想いが伝わり「仕事に対するプロの技」を見て、話して感じることができました。すごく刺激を受けました。
そんな北釜耕人の3人のお父さんを支えるお母さん達も素敵な女性です。収穫と出荷準備はお母さん達の仕事。雨が降ろうとレインコートを着て収穫する姿はたくましく、家に帰れば手際よく食事の準備をし、研修生に本当のお母さんのように接してくれました。
櫻井さんの家ではお孫さん(2歳の女の子と4ヵ月の男の子)も来てくれました。2歳のお孫さんと「恥ずかし~!!!」と言いながらも一緒にアンパンマンダンスをするお母さん。私達もまぜてもらい一緒にダンス。楽しい時間を過ごしました。初対面の私達に対し、何の壁もなく、すぐに溶け込めるように研修生の国について質問したり、フィリピン台風被害の心配をしたり、本当に温かい家族でした。「日本の家族」の温かさを感じることができました。
震災の被害にあっても前へ前へと進む姿は、人の心を動かします。今回の視察で研修生も私も3日間以上のものを得ることができました。「後ろをむいてもしょうがない!前に進もう!」という気持ちをもって、これから前に進んでいきます。
皆様、本当にお世話になりました。
ありがとうございました!!
昨日に引き続き、今回の体験研修の報告です。
今回研修生は、海岸林再生の現場を視察するだけでなく、
被災地域の方々の家にホームステイをして、
日中は一緒に農作業をしながら今までの経験をじっくり聞く事ができました。
今回お世話になった農家の方々は北釜耕人会という組織を被災後に立ち上げられた3家族の方々でした。今の時期はあまり農作業が忙しくないとの事でしたが、どんな作業でも体験させて欲しいとお願いをし、小松菜作付けの準備、収穫、資材片づけ等の作業を一緒にさせて頂きました。当時のお話を聞いていると、とても今の状態を想像できない程の惨状だった事と思いますが、農家の方からは
「自分達は元々農家だったから、何としてでも農業を再開するという強い気持ちをもってこれまでやってきた。まだまだ復興は途上だけれども、自分達が先頭に立って歩んでいきたい」
という言葉がありました。
今回の参加者の中にはフィリピンの研修生がいました。今月、猛烈な台風30号が直撃した惨状に胸を痛めながら今回の研修に参加していたと思います。前日の被災地視察に続き、被災者した農家の方々の取り組む姿勢、特にその気持ちの部分を学ぶことができて良かったと研修生達は一様に話していました。
今回参加した研修生達は日本での研修終了後にそれぞれの国へ戻っていきます。
東北の名取での被災者の思い、そしてその後の歩みを学べた今回の研修が
現地の人達と共有される日が来るのを願っています。
海外事業部の藤井です。
11月19日~21日まで、四国研修センターの研修生4名と
引率指導員1名が海岸林再生プロジェクトでの体験研修を行いました。
今回の研修の目的は、海外からの研修生に名取市海岸林再生の会と
オイスカの取り組みを学んでもらう事で災害に対する知識を深める事と、
それに参加する農家の方々との交流でした。
今回、研修に参加した研修生は、インドネシア男性1名(農業指導)、
フィリピン女性2名(国際ボランティア、家政)、
パプアニューギニア女性1名(国際ボランティア)の計4名。
研修期間は2泊3日で、初日は四国から夜行バスを乗り継ぎ仙台入りするという強行軍でしたが、
期間を通して現地の方々との交流を通じて多くの学びが得られた事と思います。
私は、今回の研修のサポートという立場での出張でしたが、期間中に印象に残った事を書きたいと思います。
今回、仙台到着後に最初に現場視察をしたのは海岸林再生の会の鈴木英二会長のご自宅でした。現在、ここにはこの1軒のみが残っているだけで周りには住宅はありません。会長自ら津波に襲われた当時の写真を見せながら説明をして下さいましたが、そこには多くの住宅のある集落に襲いかかる津波の様子が写されていました。当時を思い出させる写真を食い入るように見る研修生達、そしてその写真を見ながら私も一緒に無言になっていました。そして、現在の復興の話になった際に会長から
「当時失われた人や物が戻る事はないけれど、その後は前を見て一生懸命に歩んできた。でも何よりも悲しいことは、この集落で助かった人達が二度と一緒の場所で住むことができないこと、
自分達のコミニティがバラバラになったことなんだよ」
という話がありました。
その夜に男性研修生と私がお世話になったホームステイ先の住宅も
名取市の危険区域に立っており、間もなく新たな場所へ引っ越しをされるとの事でした。
現在も被災者の方々の苦しみは続いています。
自分達の育ったふるさとを失った悲しみの一端を研修生達は理解し、
そしてその活動の意義を学べた事と思います。