こんにちは、浅野です。
4月から海岸林再生プロジェクトのアルバイトをさせてもらっていましたが、
9月1日が最後の出勤でした!
基本的には東京の本部事務所で仕事をしていたので、
ご存じない方もたくさんいると思います。
本部では4,5月は主に植樹祭に向けての準備をし、
その後はDM発送の準備をしていました。
他にはブログ、インフォメーションの更新やご寄附いただいた方々へ
御礼状を送ったりなど…事務仕事を行っていました。

今年度の植栽地

今年度の植栽地


5月からは名取の現場にも行かせてもらい、
月2回のペースで…いつの間にか9回も行っていました。
現場では、いろいろな作業をしました。
初めて行ったときはちょうど植栽を行っていたので、
再生の会の方々の出荷作業を手伝わせてもらいました。
これは、仮植床から苗を掘り取り、本数管理した上で、
しっかりと水に浸し、200本ずつ藁に包んで運び出すものです。
この時期にしかできない作業なので貴重な経験でした。
この時に再生の会の方々に初めて会ったのですが、
溶け込みすぎてて吉田さんにびっくりされました。
これ、よく言われるんです。
どこに行っても「あれ?初めてだっけ??」って…。
話、ズレましたが…
他にも現場ではボランティアの方々と一緒に草取り・根踏み・
チップ寄せ、広葉樹の播種をしたり、苗の選別をしたり、
清藤先生と一緒に広葉樹の本数管理や現場のモニタリング調査もしました。
初めてやることも多かったので、いろいろと勉強になりました。
来年度、植栽予定の苗たち

来年度、植栽予定の苗たち


最初は海岸林?クロマツ??と
「?」がいっぱいで戸惑うことも多かったのですが、
ブログを読み、海岸林再生に関するいろいろな記録を読み、
現場に行って、読んできたものと照らし合わせて理解を深めたり…
再生の会の方、ボランティアで来てくれた方と話をして、
いろいろな立場からのこのプロジェクトに対する想いを知ったり…
いろいろなことを学ぶことができました。
たくさん迷惑もおかけしましたが、
本当に有意義な時間を過ごすことができました。
5ヵ月間本当にお世話になりました。ありがとうございました。
なぜ辞めるのかを書いていなかったので、少しだけ。
10月末からアフリカに行くので、その事前準備もろもろのために…です。
あ、これオイスカとは全く関係ない形で行くのですが。
来年、また来ます!と皆さんに約束したので
今年植栽した苗が元気に生長することを祈りつつ
来年の苗を楽しみにしつつ…元気に行ってきます!!

植栽現場実踏ルポ④

2014年9月1日( カテゴリー: 現場レポート )

盛土北端(育苗場の真東500m)にたどり着いた。
目前では、林野庁発注による「名取工区第10治山工事(国有林)」が終盤を迎えている。
工事終了は真近。真夏の土曜も工事は続く。ここも公募となれば手を挙げるつもりである。
隣接する我々の植栽現場の排水路には、広浦にも近いためかカニが何匹か住み着いていた。
大きな巣穴がいくつもあった。
海岸林内陸側の農地は復旧工事も終盤。
この秋には地権者に引き渡しされ、いよいよビニールハウスが据付け始められるのだろう。
聞くところによると、2つのグループが営農するという。
また、復興庁予算で民間企業や大学などが、広大な面積に菜の花を植えて
養蜂プロジェクトを始めるとも聞く。
ついでに言えば、貞山堀の拡幅工事も始まり、育苗場から植栽現場に行く橋の架け替え
工事も始まり、現場に行く最短経路は架け替え工事終了まで通行止めになる。
昨年の今頃の農地はまだ芦原だった。トンボの種類が多かった。
そういう所は生物多様性が豊かというが、芦原は刈られ、客土され農地になった。
糸トンボや、オニヤンマ、綺麗な水色のトンボは拠点を広浦の湿地帯に移したのだろうか。
そういえば白鳥が1匹いたが、あの士はどこに行っただろうか。

天地を替えて置いてある雑草

天地を替えて置いてある雑草

 
盛土最西部北端、7月にボランティアと格闘した除草現場は、目を見張るものがあった。
しかし、この効果はどう表現すればいいだろう。
清藤参事や佐々木さんご兄弟とも議論してみよう。
除草した草は、指示通り、天地を替えて根を上にし、苗木の根元を少しでも保護するように敷かれている。
ボランティアが機能していることを証明するにはどうすればいいか。
どうすれば行政やプロにもわかりやすいか。
 
すごすぎる雑草魂…

これぐらいしぶとく…

それにしても、雑草魂はスゴイ。
根についた土は肥料も交じっているので、苗木の周りに払い、保湿の一助にと根元の周りに置いた。
一度完全に抜き、根を枯らすために天地を逆にしたにも関わらず、地面を目指し、到達する根もある。刈り取ったはずの草が僅かに緑色を残しているものも見られた。たった一本の根であっても、土に刺さり、抜くのに手ごたえがある。
一緒に苦労した方もきっと驚くだろう。雑草恐るべし。
このぐらいシブトイ人間になりたいと思う。
 
とにかく、除草にしても何にしても、記録が大事。
もっともっとメモ魔になろう。メモは上手に残そう。現場の特徴を知り抜こう。
来年は保育15ha、植栽15ha。毎年15ha増えるんだ。
様々な今年の記録は、諸事条件が変わったとしても財産になる。

植栽現場実踏ルポ③

2014年8月30日( カテゴリー: 現場レポート )

ところで、今期の植栽地盛土は6つの工区、6つの建設業者の手で工事されたもの。
よく見ると、状況がすべて違う。土の出所は異なるので、草の繁茂の状況も違う。
半分以上の現場では、未だ「月面」のように草すら生えていないのですが、
場所によっては、クローバーが絨毯のようで、ピクニック気分になれる公園のよう。
草の繁茂は海岸林の場合、砂の移動・つまり飛砂からの根元の保護と、
高温障害からの保護に効果もある。
草刈りすべき草と、捨て置いてよい草と分けて考えている。
しかし、どうしてクローバーが生えるの?
白やピンクの花が咲いている。
「施肥」だけでは説明がつかない草の種類、繁茂している場所を記録した。

マツの場所が分からないくらい 生い茂る雑草たち

マツの場所が分からないくらい
生い茂る雑草たち


国有林と、市有林の5月24日の植樹祭箇所は、すべて抵抗性クロマツ・コンテナ苗。
ただの1本も枯れていない。一言でいえば、頼もしい。
苗の活きが抜群に良い。たくさんの枝が出ている。
コンテナ苗特有の、ひょろっと弱弱しく、風にたなびく姿ではない。
植樹祭箇所 力強い苗に育っている

植樹祭箇所
力強い苗に育っている


隣接する市有地には、あまりの水捌けの悪さで、車数台分程度植えていない場所がある。
宮城県の県産材で、数mの高さ、耐久年数10年程度の、管理櫓を作ってみたい。
ここで、その高さなら航空法にも引っかかることはないと考えている。
ボランティアの人には、仕事の後の爽快感をいつも防潮堤で味わっていただいているが、
それとは違うダイナミックな見応えを味わってもらいたい。
費用は100万円かからないのではないか。
(こういう仕事はどうしても後回しになるので、実現性は低いけど)
今年は15ha、クロマツを75,000本を植栽したが、一部国有林に432本の広葉樹を植栽。
対象地と考えていた場所が、諸事情により植栽基盤盛土工事から外され、
協定対象地になっていないため、広葉樹植栽本数は想定よりも極端に少なくなった。
しかし、我々が植えたその成績は残念ながら良くない。
おそらく3分の1は枯死したと思われる。
よく見ると萌芽しているものもあるが、冬越しは難しいと思われる。
原因は自然環境ではなく、我々自身の人為的なもので、
仕方なく未熟な1年生苗を植えたこと、根切り・仮植後、植栽までに間を開けてしまい、
新葉が出てから植えたことが大きいと私は考えている。
クロマツ植栽に集中する期間の前に、手を打てなかった自分の責任。
今後、ふさわしいタイミングを検討し、補植を実施することになる。

植栽現場実踏ルポ②

2014年8月29日( カテゴリー: 現場レポート )

佐々木統括を筆頭に、森林組合、再生の会の経験知識を駆使したが、
それにしても天候に恵まれた。近隣の農家に聞くと、野菜の出来もイイそうだ。
振り返れば、今年は雨が常にいいタイミングで降った。10日に一度は降った。
大雨もあり、逆に根腐れを心配し、水捌けが悪い場所には水路を作った場所もあった。
10日水に浸かると根腐れとなる確率が高く、雨続きを心配した時もあった。
蔵王おろしも弱かった。最も西側に防風の措置を取ることも検討し資材は整えたが、
ついには設置することもなかった。来春の風対策で再検討するが。
森林組合のプロの人員派遣計画も、予定通り実行され、
施肥も梅雨のタイミングと合って、生長に寄与させることができた。

本当に天候に恵まれた年でした。

本当に天候に恵まれた年でした。


本部事務所の女性職員から電話が来た。
唯一の日陰は防風垣(ハードルフェンス)。その中に潜って、その電話を受けた。
涼しい。根っこが生えそうなぐらい、ヒンヤリして気持ちよかった。
その後すぐ、ボールペンを落とした。
視力だけはイイのですが、発見に及ばず。
やはり予備のペンは常に持たねば。
よく落っことすんです。
植栽地の3分の1を見るのに2時間。
気が済むまでやると、予定通り日暮れまでかかりそうだ。
「ボランティアは戦力足り得るのか」 しっかりと検証していきたいですね。

「ボランティアは戦力足り得るのか」
しっかりと検証していきたいと思います。


 
ボランティアさんと、植栽木根元の根踏み。
チップ寄せ、そして6月中旬からは除草、葛の抜き取り。
月に250人のボランティアのみなさんと共にした3ヵ月。
その効果はどうだったのか?本当に効果的な仕事になったのか?
検証は今回だけではできない。
しかし、来年の引き出しになるように、検証し、記録を残さねば。
宮城での海岸林ボランティアが有効かどうか、
参考にする素材はどこにもない。
外部の誰も責任ある回答をすることはできないでしょう。
これだけはどの論文、どの専門家も語っていない領域。
「ボランティアは戦力足り得るのか」
いつか我々の手で編集することになる、
「宮城南部海岸林再生マニュアル」にも
この項目は必ず織り込みたい。そういうことも思いながら歩いた。

植栽現場実踏ルポ①

2014年8月28日( カテゴリー: 現場レポート )

少し前のことですが。
一人になった土曜日、体力にモノを言わせ、15ha全てを一日かけて
気が済むまで自分なりに実踏精査しました。
朝、松島で佐々木統括のお母さんからいただいた10個の大きなトマトが入った
リュックは、空港近くにある再生の会の鈴木会長の会社に置いて、
最小限の道具と、最低限の飲み物だけ持って。
誘導灯の周辺のニセアカシアの繁茂の状況を詳細に把握しました。
すでに海側最前線の盛土の角まで進出していることを確認。
樹高2m。ここの除伐はプロなら2人工×半日。ボランティアだと20人工×半日か。
これは工具の違い。プロは手慣れた刈払機。ボランティアは柄の長い大鎌。
スピードの違いは圧倒的。
除伐実施については、佐々木統括の指示で決めることにする。
ここを発生源に葛も侵入する。
しかし、ボランティアの皆さんが、梅雨時の雨上がりに、
根から抜いてくれたのが功を奏している。
雨上がりは引き抜きやすい。梅雨時に手を打ってよかった。
快晴。おそらく今季最高気温。
夕方用に飲み物の予備を草むらの日かげに隠して、
植栽現場15haを南北に分け、まずは西側を閖上方面に向かって北上。

誘導灯最寄りの今季最終植栽地

誘導灯最寄りの今季最終植栽地


 
誘導灯最寄りの今季植栽最終日5月30日の植栽地。
ここは風の吹き溜まり。チップが20cmの厚さとなり、その上、水捌けも悪い。
しかし、森林組合の佐々木君と実験的に「水路」を作ったがうまく機能していた。
これは、ボランティアには頼みにくく、手間もかかり、くたびれたことを思い出す。
市有林西側を北上。
佐々木統括に教わった方法で枯死率も調べながら。
17人の種苗組合生産農家から購入した、①抵抗性クロマツ・コンテナ苗・2年生、
②普通クロマツ・露地栽培・2年生の現場が続く。
混在させず分けてはいるが、プロでなくても見分けがつくぐらい、苗の外観は違う。
今季植栽地の南側は、購入の良苗、悪苗、希望と違う仕様で納入された苗
(海岸林で嫌われる3年生の「大苗」)があり、最も心配している箇所。
驚いたのは、夏を越せないと覚悟した区画でも、かなりリカバリー。
やはり露地栽培の悪苗・大苗は枯損率が(3.3%)であるものの、
全体的には新たな枝が勢いよく出ていた。
全体的に生育良好

全体的に生育良好

お盆明けの作業の概要

2014年8月27日( カテゴリー: 現場レポート )

海岸林ブログは、記録としての役目も持っており、
文章が長い、専門用語など読みにくい点などをお詫びしたいと存じます。
いつも海岸林女性関係者から、「オタク」と呆れられてます…

空中断根をしているコンテナ たっぷりの水を…。

空中断根をしているコンテナ
たっぷりの水を…。


 
お盆明け、育苗場では数名の再生の会メンバーが除草・散水に明け暮れています。
今は追肥について検討しています。少々丈が足りない点は心配していないのですが、より太い幹に仕立てたいと考えています。
2年目のコンテナ苗は、充実した細根が生えるよう、「籠」の上にコンテナを置いて地面から離す「空中断根」を開始しています。地面から水分を取れないため、散水が欠かせません。
 
再生の会とボランティアの皆さんの協働のおかげで、除草はパーフェクトです。
再生の会メンバーが各自植栽現場に見に行くことも多くなったようです。
さすがに気になって。私にとってはとても嬉しいことです。
目下、東北各県の森林整備課関係者の視察・研修も相次いでいます。
植栽現場は15ha。
部分的、限定的ですが、雑草が1.5m高の草丈になっている場所があります。
これもプロの手を借りず、ボランティアだけで対処できました。
秋の気配を感じるようになり、佐々木統括の指示により、
草刈りの仕方を「つぼ刈り」に変えてみました。
梅雨時、最もクロマツも雑草も生長しようとするときの1回目の草刈り方法と、
9月に入る今と、同じやり方でなくても良いのではないかと。
植栽された木から半径約30cm~50cm以内だけに限って草刈りをするという方法です。
とにかく、植えられた木の最も下の枝(力枝)にまで、しっかり日光を当てるという目的です。
草は草で「高温障害」「飛砂」防止に活用し、人工数を半減(おそらくそれ以上の削減)させようと。
全面刈り(今までもそこまでやっていませんが)と比べて、相当のスピードアップも図れます。
佐々木統括が言う「潔癖造林」とは大違い。
ついつい、机上で考えてしまう私のような未熟者は「無意味な見栄え」に走るものです。
この発想、大いに納得、ただただ感心。場数の違い。
作業の「目的」を再認識しました。
草刈りビフォー

草刈りビフォー


アフター

アフター


 
 
 
 
 
 
8月22日、UAゼンセンのボランティア24名(リピーターも多数)の手で、
草刈りを完了させたかった数ヵ所、約1haは、正味2時間半で終え、
加えて、葛刈り重点ゾーンの半分、約5haも対処できました。
7月中旬から月末までのボランティアさんと葛を刈って以来2度目です。
予定の仕事は完結できました。
林野庁による「静砂垣」の設置工事も始まりました。
詳しくはまた後日にしますが、
11月から来年5月中旬までの「蔵王おろし」に対抗する重要な設備です。
遥か先まで植栽した木が見えるのは、来月中旬まででしょう。
*「静砂垣」については、「海岸林あれこれ」にて、各地で見たものを紹介しています。
ご覧ください。例えばこちら

①に続いて大友祐一郎さんのインタビューです。
≪クロマツの芽が出た時の嬉しさ≫
再生の会で活動をしてから足掛け3年。
労働作業としては、農業とあまり変わらない感じで、特に戸惑いはなかったです。
種を撒いてから芽が出たときは何とも言えない感動ですね。
実は海岸林の効用なんていうのも、
オイスカの吉田さんから聞いて、今回初めて知ったんです。
名取の海岸林の植林の歴史も全く知りませんでした。
海岸林をなくして初めて海岸林のありがたさが分かったんです。
これまでは「あって当たり前」だった。
昔は、ストーブの燃料するのに、松傘を取りに行ったりもしました。
夏は海水浴に行ってマツ林で休んだりする遊び場でした。
でも、大人になってからは、せいぜい秋にキノコ採りに入るぐらい。
アミタケだの、ロクショウハッタケ、キンタケ……いっぱい取れましたね。
マツ林の中に「愛林の碑」が立っていることも知ってましたが、興味を持ったこともなかった。
≪震災後の農業収入≫
畑でつくる小松菜は、だんだん収益が上がるようになってきて、
今は震災前の7、8割ぐらいの収入になりつつありますが、
田んぼは、農機具が水没して電気系統がだめになり、使用できなかったし、
田んぼの片付けのあとの区画整理が進まなかったため、作業ができませんでしたが、
何とか来年あたりに田植ができるのではないかというところまで来ました。
農機具はもう新規には買えません。
新たに買うとなると2~3000万円かかりますから、とてもとても……。
≪海岸林の再生の現状と未来≫
農作業と労働は変わらないと言ったけど、
小松菜や野菜と違ってクロマツの成長には時間がかかりますよ。
ぼくは今66歳。
今植林をしているマツが、元のマツ林のようにたくましくなるのを見届けることはできないでしょう。
このプロジェクトは10年掛けるわけだけど、
一番心配なのは、若い人たちがこの活動に関心を持ってくれるのかということです。
「再生の会」から「マツ林を守る会」のような管理をする団体が早く組織されて、
若い人たちが後継者となっていってくれたら、一層展望が開けると思うんだけれどね。
この間、地元の農業高校の生徒たちがボランティアに参加してくれたけれど、
ああいう姿を見ると少し安心はしますね。

元気に育っているマツとともに…。

元気に育っているマツとともに

インタビュー文責:徳田祐子(オイスカ本部ボランティア)
インタビュー日:平成26年7月25日

今回は大友祐一郎さんのインタビューをご紹介します。
                                                    
≪3.11の震災当時≫
地震は、当時勤めていたJAにいたときに起きました。
すぐに自宅へと車を走らせました。
車の中でラジオを聞いていたから、
本当は大津波警報が流れていたと思うけれども、動揺してたんですね、
何も覚えていない。
頭の中にあったのは、余震の恐怖だけ。
昭和49年の宮城沖地震のときは大きな余震が来たもんで、その記憶が強かったんです。
津波は、地震から約1時間後に来たんです。
地震直後には停電していたから、家に帰ってから自家発電機を点検していたとき、
ラジオを聞いていた家内が「仙台空港に津波が押し寄せたみたい」と言ったんで、
ふと目を上げたら、真っ黒い波が足元に来ていました。
戸を閉めるのがせいいっぱいでした。
2階の窓から、ものすごい速さの津波が周辺の物を押し流し、
押し流された物がぶつかったり、わが家にぶつかったりするのをただ見ているだけでした。
車も流れていく、ビニールハウスも流れる・・・・・・。
昼間なのに暗くてね。
≪フクが来た!≫
震災当日の夜は二階で寝ました。
1階は海水と泥と流れ着いた物でグチャグチャでした。
次の夜は、町内会長の大友秀雄さんが、
小学校に避難してと言いにきてくれたんで行ってみたら、体育館はもう人でいっぱい。
教室を借りたけれど、後から来た者には毛布も回ってこない。
カーテンを外して床に敷いて何とか寝ましたが、80過ぎの親父が気になって、
親父に「家に戻ったら死ぬかも知れないけど、いいか?」って聞いたら
「いい」と言うので、その夜からは家に戻りました。
冷蔵庫に残っていたものを食べたけど、何を食ったんだか記憶にないなぁ。
1階は泥で埋まってましたが、2階は寝ることもできたし、なんとか暮らすことができました。
その海水泥の中に生きたフグが紛れ込んでいて、
それを見た親父が「フク(福)来たから大丈夫!」と言ったんです。
励みになりましたよ。
そう考えると、作業用倉庫が引き波にも耐えて残ったし、プロパンガスも残った。
倉庫の中には冷蔵庫3台と、冷凍庫1台、カセットコンロも入っていたから、
当面、食べ物には不自由せず、ラッキーでした。
家族、親戚からも犠牲者も出なかったし。
フグは大事に飼っていましたが、1ヵ月しか生きませんでした。
≪海岸林再生の会との出会い≫
あの頃は、この先どうなるのかなんて考えてなかった。
今日一日を凌ぐことに精いっぱいでした。
瓦礫と泥で埋まったうちの畑には家が3軒流れ着いて、
そこからは遺体が2体発見されていたし、毎日、自衛隊の手伝いに明け暮れる日々でした。
そんなときに、大友秀雄さんたちが
「名取の海岸林を再生する会を発足したんだけど、協力してくれないか」って声を掛けてくれたんです。
即、賛成しました。
気心が知れた大友さんらの声掛けだったし・・・・・・
なんか「再生」という言葉が心に引っかかったというかね。

名取事務所でのインタビュー

名取事務所でのインタビュー


➁に続く

①に続いて武田昭夫さんのインタビューを紹介します。
                                                    
≪やっと植樹する喜びが分かってきた≫
再生の会の作業としては、忙しいときで、
1ヵ月に2週間弱活動をするような塩梅でしょうかね。
会員になってすぐに育苗作業を手伝い、
今年は2年前に直播きした分を抜いて、床替えをする作業などをしました。
3月後半からはポット苗にするために、ポットに土を入れていって、
4月後半からはそれらのポットに種まきをしました。
第二育苗場の土の固さにはちょっと苦労をしましたが、今年の植樹祭も無事に迎えられたし、
やっとマツを育てることの喜びが分かってきました。
土いじりはもともと好きで、家の庭の植木の手入れも自分でしますし、
野菜も育てていますが、松林をタネから育てるというような、
ご先祖がやってこられたことをまさか自分でやるとは思わなかったですよ。
まだまだ元気ですから、75歳ぐらいまではやるかな(笑)。

庭の手入れもすべてご自分でされるそうです。

しっかりと手入れされたきれいな庭で。


≪震災への関心、風化が心配≫
復興の進展具合には、同じ名取市内でも差があります。
閖上地区は被害も大きく、人口も多い。
さらには先祖代々からの住民と新興地にあとから移り住んだ住民とが混在し
元々住んでいた住民が少数派、しかもこの辺とは違って漁業関係者が多い、
というようなさまざまな要素が、復興計画のまとまりを阻んでいます。
比較的復興が進んでくると、今度は震災に対して関心が薄れてくるのも、
ある意味自然なことではありますが、町内会長として、
何とかこの名取にとっての海岸林の重要性を理解していってほしいと思っています。
地道に新しい人たちにも声をかける以外に妙案はないですね。
この間も、オイスカの吉田さんにチラシをもらって周辺全戸に配布しました。
ボランティアに参加してくださる人も何人かあって、
皆さん、あの300m幅に植えられたクロマツの列を見ると感心されます。
県内外からも多くの関心が集まるといいですね。私もがんばります。

インタビュー文責:徳田祐子(オイスカ本部ボランティア)
インタビュー日:平成26年7月25日

こんにちは。浅野です。
先月末にインタビューをしに名取へ行ってきました!
と言ってもインタビュアーは私ではなく、ボランティアの徳田さん。
徳田さんは本職はライターなのですが、
東京本部で週2回ほど、広報を中心にボランティアをしてくださっています。
まずは武田昭夫さんのインタビューを2回に分けてご紹介します。
                                                    
≪町内会長として復興に率先≫
私の家は海から約4㎞内陸にあります。
わが家周辺は津波による冠水が45㎝になりました。
うちの畑には幸い海水は入りませんでしたが、
町内(本村)の被害は、64戸中、床上浸水1軒、大規模半壊5戸。
あまり顧みられることがないのですが、屋敷林の津波被害というのも見過ごせませんで、
津波の入った屋敷林は震災後1年で枯れてしまったんです。
屋敷林は64戸ありましたが、うち35戸の屋敷林が枯れてしまい、
名取市に掛け合って伐採をお願いしました。
復興を受け身で待っていても意味がないというので、
まず自分たちの生産組合を中心に復興組合を立ち上げました。
地元でできること、できないことを仕分けして、みんなで瓦礫を片付けたり、
農業用水の修復などに精を出す一方、重機を使用するような事は市の方にお願いをしました。
お陰で震災の翌年の5月に田植えができました。
うちの地区の動きは総じて早かったと思います。
≪震災の翌年、海岸林再生の話を聞く≫
町内会長仲間である鈴木英二さんや、大友英雄さんたちから、
海岸林の再生の会のことは以前から耳にしてはいましたが、
私にも参加してほしいという依頼がきたのは、震災の翌年です。
ぼくらの地区の農地が1年で復興したので、今度は海岸方面を手掛けなきゃと
思っていたところだったので、一も二もなく協力しました。
昨年(2013年)の夏ごろ会員登録をして、秋から活動に参加しました。
≪海岸林には格別の思い出が≫
小学校のころ、広浦の南側、貞山濠の西側に、
ぼくらの「学校林」(仙台空港北側・海より2km)があったんです。
マツだけの林でね、それを一生懸命手入れしたものです。
それが全国一の学校林として、優秀賞をもらったことがありました。
(全国学校緑化コンクールで昭和27年準特選、翌28年特選)
小学校も4年生になると、5、6年生と一緒に、冬は松ぼっくりを拾いに
海岸まで1時間の道のりを歩いて行くようになります。
南京袋と呼ばれた麻袋いっぱいに松傘を詰めて、
さすがにそれは牛車で学校まで運ぶのですがね。
夏は、い草干しの思い出ですね。
昭和30年代から50年代まで、この下増田は東北地方有数のい草の産地でした。
わが家は非農家で、父は農協勤務でしたが、田畑も3反歩ぐらいあってい草も作っていました。
い草刈りは夏が本番です。
子どもの背丈ほどになったい草を刈ったあと、白い泥水状の石灰顔料に浸すんです。
それを早朝に、北釜海岸まで持っていって砂浜に広げるんです。
い草が乾く間、松林の中でご飯を食べたり寝転んだり、
子どもは海で泳いだり、楽しい時間を過ごしたものでした。
母方の祖父母の家は、現在の仙台空港の東のほうにありましたが、
そこでもい草干しはもちろん、祖母などは砂浜にハマボウフウを植えていました。
ハマボウフウは毎年、新芽を摘んでそれを酢味噌和えにしたり、
大量のハマボウフウを味噌漬けにして食べたものです。
松林は私たちにとってごく身近な存在で、あちこちに植林の碑があります。
下増田公民館には、初代の阿刀田義潮村長の植林の碑があります。
名取は、伊達政宗の時代だけではなく、明治の後半から昭和にかけても
地元民を巻き込んで植林をしてきた町だということをよく聞かされていました。

武田さん(右)とインタビュアーの徳田さん(左)

武田さん(右)とインタビュアーの徳田さん(左)


②へ続く…

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