佐々木統括を筆頭に、森林組合、再生の会の経験知識を駆使したが、
それにしても天候に恵まれた。近隣の農家に聞くと、野菜の出来もイイそうだ。
振り返れば、今年は雨が常にいいタイミングで降った。10日に一度は降った。
大雨もあり、逆に根腐れを心配し、水捌けが悪い場所には水路を作った場所もあった。
10日水に浸かると根腐れとなる確率が高く、雨続きを心配した時もあった。
蔵王おろしも弱かった。最も西側に防風の措置を取ることも検討し資材は整えたが、
ついには設置することもなかった。来春の風対策で再検討するが。
森林組合のプロの人員派遣計画も、予定通り実行され、
施肥も梅雨のタイミングと合って、生長に寄与させることができた。
本部事務所の女性職員から電話が来た。
唯一の日陰は防風垣(ハードルフェンス)。その中に潜って、その電話を受けた。
涼しい。根っこが生えそうなぐらい、ヒンヤリして気持ちよかった。
その後すぐ、ボールペンを落とした。
視力だけはイイのですが、発見に及ばず。
やはり予備のペンは常に持たねば。
よく落っことすんです。
植栽地の3分の1を見るのに2時間。
気が済むまでやると、予定通り日暮れまでかかりそうだ。
ボランティアさんと、植栽木根元の根踏み。
チップ寄せ、そして6月中旬からは除草、葛の抜き取り。
月に250人のボランティアのみなさんと共にした3ヵ月。
その効果はどうだったのか?本当に効果的な仕事になったのか?
検証は今回だけではできない。
しかし、来年の引き出しになるように、検証し、記録を残さねば。
宮城での海岸林ボランティアが有効かどうか、
参考にする素材はどこにもない。
外部の誰も責任ある回答をすることはできないでしょう。
これだけはどの論文、どの専門家も語っていない領域。
「ボランティアは戦力足り得るのか」
いつか我々の手で編集することになる、
「宮城南部海岸林再生マニュアル」にも
この項目は必ず織り込みたい。そういうことも思いながら歩いた。
少し前のことですが。
一人になった土曜日、体力にモノを言わせ、15ha全てを一日かけて
気が済むまで自分なりに実踏精査しました。
朝、松島で佐々木統括のお母さんからいただいた10個の大きなトマトが入った
リュックは、空港近くにある再生の会の鈴木会長の会社に置いて、
最小限の道具と、最低限の飲み物だけ持って。
誘導灯の周辺のニセアカシアの繁茂の状況を詳細に把握しました。
すでに海側最前線の盛土の角まで進出していることを確認。
樹高2m。ここの除伐はプロなら2人工×半日。ボランティアだと20人工×半日か。
これは工具の違い。プロは手慣れた刈払機。ボランティアは柄の長い大鎌。
スピードの違いは圧倒的。
除伐実施については、佐々木統括の指示で決めることにする。
ここを発生源に葛も侵入する。
しかし、ボランティアの皆さんが、梅雨時の雨上がりに、
根から抜いてくれたのが功を奏している。
雨上がりは引き抜きやすい。梅雨時に手を打ってよかった。
快晴。おそらく今季最高気温。
夕方用に飲み物の予備を草むらの日かげに隠して、
植栽現場15haを南北に分け、まずは西側を閖上方面に向かって北上。
誘導灯最寄りの今季植栽最終日5月30日の植栽地。
ここは風の吹き溜まり。チップが20cmの厚さとなり、その上、水捌けも悪い。
しかし、森林組合の佐々木君と実験的に「水路」を作ったがうまく機能していた。
これは、ボランティアには頼みにくく、手間もかかり、くたびれたことを思い出す。
市有林西側を北上。
佐々木統括に教わった方法で枯死率も調べながら。
17人の種苗組合生産農家から購入した、①抵抗性クロマツ・コンテナ苗・2年生、
②普通クロマツ・露地栽培・2年生の現場が続く。
混在させず分けてはいるが、プロでなくても見分けがつくぐらい、苗の外観は違う。
今季植栽地の南側は、購入の良苗、悪苗、希望と違う仕様で納入された苗
(海岸林で嫌われる3年生の「大苗」)があり、最も心配している箇所。
驚いたのは、夏を越せないと覚悟した区画でも、かなりリカバリー。
やはり露地栽培の悪苗・大苗は枯損率が(3.3%)であるものの、
全体的には新たな枝が勢いよく出ていた。
お盆明けの作業の概要
海岸林ブログは、記録としての役目も持っており、
文章が長い、専門用語など読みにくい点などをお詫びしたいと存じます。
いつも海岸林女性関係者から、「オタク」と呆れられてます…
お盆明け、育苗場では数名の再生の会メンバーが除草・散水に明け暮れています。
今は追肥について検討しています。少々丈が足りない点は心配していないのですが、より太い幹に仕立てたいと考えています。
2年目のコンテナ苗は、充実した細根が生えるよう、「籠」の上にコンテナを置いて地面から離す「空中断根」を開始しています。地面から水分を取れないため、散水が欠かせません。
再生の会とボランティアの皆さんの協働のおかげで、除草はパーフェクトです。
再生の会メンバーが各自植栽現場に見に行くことも多くなったようです。
さすがに気になって。私にとってはとても嬉しいことです。
目下、東北各県の森林整備課関係者の視察・研修も相次いでいます。
植栽現場は15ha。
部分的、限定的ですが、雑草が1.5m高の草丈になっている場所があります。
これもプロの手を借りず、ボランティアだけで対処できました。
秋の気配を感じるようになり、佐々木統括の指示により、
草刈りの仕方を「つぼ刈り」に変えてみました。
梅雨時、最もクロマツも雑草も生長しようとするときの1回目の草刈り方法と、
9月に入る今と、同じやり方でなくても良いのではないかと。
植栽された木から半径約30cm~50cm以内だけに限って草刈りをするという方法です。
とにかく、植えられた木の最も下の枝(力枝)にまで、しっかり日光を当てるという目的です。
草は草で「高温障害」「飛砂」防止に活用し、人工数を半減(おそらくそれ以上の削減)させようと。
全面刈り(今までもそこまでやっていませんが)と比べて、相当のスピードアップも図れます。
佐々木統括が言う「潔癖造林」とは大違い。
ついつい、机上で考えてしまう私のような未熟者は「無意味な見栄え」に走るものです。
この発想、大いに納得、ただただ感心。場数の違い。
作業の「目的」を再認識しました。
8月22日、UAゼンセンのボランティア24名(リピーターも多数)の手で、
草刈りを完了させたかった数ヵ所、約1haは、正味2時間半で終え、
加えて、葛刈り重点ゾーンの半分、約5haも対処できました。
7月中旬から月末までのボランティアさんと葛を刈って以来2度目です。
予定の仕事は完結できました。
林野庁による「静砂垣」の設置工事も始まりました。
詳しくはまた後日にしますが、
11月から来年5月中旬までの「蔵王おろし」に対抗する重要な設備です。
遥か先まで植栽した木が見えるのは、来月中旬まででしょう。
*「静砂垣」については、「海岸林あれこれ」にて、各地で見たものを紹介しています。
ご覧ください。例えばこちら
再生の会インタビュー 大友祐一郎さん②
①に続いて大友祐一郎さんのインタビューです。
≪クロマツの芽が出た時の嬉しさ≫
再生の会で活動をしてから足掛け3年。
労働作業としては、農業とあまり変わらない感じで、特に戸惑いはなかったです。
種を撒いてから芽が出たときは何とも言えない感動ですね。
実は海岸林の効用なんていうのも、
オイスカの吉田さんから聞いて、今回初めて知ったんです。
名取の海岸林の植林の歴史も全く知りませんでした。
海岸林をなくして初めて海岸林のありがたさが分かったんです。
これまでは「あって当たり前」だった。
昔は、ストーブの燃料するのに、松傘を取りに行ったりもしました。
夏は海水浴に行ってマツ林で休んだりする遊び場でした。
でも、大人になってからは、せいぜい秋にキノコ採りに入るぐらい。
アミタケだの、ロクショウハッタケ、キンタケ……いっぱい取れましたね。
マツ林の中に「愛林の碑」が立っていることも知ってましたが、興味を持ったこともなかった。
≪震災後の農業収入≫
畑でつくる小松菜は、だんだん収益が上がるようになってきて、
今は震災前の7、8割ぐらいの収入になりつつありますが、
田んぼは、農機具が水没して電気系統がだめになり、使用できなかったし、
田んぼの片付けのあとの区画整理が進まなかったため、作業ができませんでしたが、
何とか来年あたりに田植ができるのではないかというところまで来ました。
農機具はもう新規には買えません。
新たに買うとなると2~3000万円かかりますから、とてもとても……。
≪海岸林の再生の現状と未来≫
農作業と労働は変わらないと言ったけど、
小松菜や野菜と違ってクロマツの成長には時間がかかりますよ。
ぼくは今66歳。
今植林をしているマツが、元のマツ林のようにたくましくなるのを見届けることはできないでしょう。
このプロジェクトは10年掛けるわけだけど、
一番心配なのは、若い人たちがこの活動に関心を持ってくれるのかということです。
「再生の会」から「マツ林を守る会」のような管理をする団体が早く組織されて、
若い人たちが後継者となっていってくれたら、一層展望が開けると思うんだけれどね。
この間、地元の農業高校の生徒たちがボランティアに参加してくれたけれど、
ああいう姿を見ると少し安心はしますね。
インタビュー文責:徳田祐子(オイスカ本部ボランティア)
インタビュー日:平成26年7月25日
再生の会インタビュー 大友祐一郎さん①
今回は大友祐一郎さんのインタビューをご紹介します。
≪3.11の震災当時≫
地震は、当時勤めていたJAにいたときに起きました。
すぐに自宅へと車を走らせました。
車の中でラジオを聞いていたから、
本当は大津波警報が流れていたと思うけれども、動揺してたんですね、
何も覚えていない。
頭の中にあったのは、余震の恐怖だけ。
昭和49年の宮城沖地震のときは大きな余震が来たもんで、その記憶が強かったんです。
津波は、地震から約1時間後に来たんです。
地震直後には停電していたから、家に帰ってから自家発電機を点検していたとき、
ラジオを聞いていた家内が「仙台空港に津波が押し寄せたみたい」と言ったんで、
ふと目を上げたら、真っ黒い波が足元に来ていました。
戸を閉めるのがせいいっぱいでした。
2階の窓から、ものすごい速さの津波が周辺の物を押し流し、
押し流された物がぶつかったり、わが家にぶつかったりするのをただ見ているだけでした。
車も流れていく、ビニールハウスも流れる・・・・・・。
昼間なのに暗くてね。
≪フクが来た!≫
震災当日の夜は二階で寝ました。
1階は海水と泥と流れ着いた物でグチャグチャでした。
次の夜は、町内会長の大友秀雄さんが、
小学校に避難してと言いにきてくれたんで行ってみたら、体育館はもう人でいっぱい。
教室を借りたけれど、後から来た者には毛布も回ってこない。
カーテンを外して床に敷いて何とか寝ましたが、80過ぎの親父が気になって、
親父に「家に戻ったら死ぬかも知れないけど、いいか?」って聞いたら
「いい」と言うので、その夜からは家に戻りました。
冷蔵庫に残っていたものを食べたけど、何を食ったんだか記憶にないなぁ。
1階は泥で埋まってましたが、2階は寝ることもできたし、なんとか暮らすことができました。
その海水泥の中に生きたフグが紛れ込んでいて、
それを見た親父が「フク(福)来たから大丈夫!」と言ったんです。
励みになりましたよ。
そう考えると、作業用倉庫が引き波にも耐えて残ったし、プロパンガスも残った。
倉庫の中には冷蔵庫3台と、冷凍庫1台、カセットコンロも入っていたから、
当面、食べ物には不自由せず、ラッキーでした。
家族、親戚からも犠牲者も出なかったし。
フグは大事に飼っていましたが、1ヵ月しか生きませんでした。
≪海岸林再生の会との出会い≫
あの頃は、この先どうなるのかなんて考えてなかった。
今日一日を凌ぐことに精いっぱいでした。
瓦礫と泥で埋まったうちの畑には家が3軒流れ着いて、
そこからは遺体が2体発見されていたし、毎日、自衛隊の手伝いに明け暮れる日々でした。
そんなときに、大友秀雄さんたちが
「名取の海岸林を再生する会を発足したんだけど、協力してくれないか」って声を掛けてくれたんです。
即、賛成しました。
気心が知れた大友さんらの声掛けだったし・・・・・・
なんか「再生」という言葉が心に引っかかったというかね。
➁に続く
再生の会インタビュー 武田昭夫さん②
①に続いて武田昭夫さんのインタビューを紹介します。
≪やっと植樹する喜びが分かってきた≫
再生の会の作業としては、忙しいときで、
1ヵ月に2週間弱活動をするような塩梅でしょうかね。
会員になってすぐに育苗作業を手伝い、
今年は2年前に直播きした分を抜いて、床替えをする作業などをしました。
3月後半からはポット苗にするために、ポットに土を入れていって、
4月後半からはそれらのポットに種まきをしました。
第二育苗場の土の固さにはちょっと苦労をしましたが、今年の植樹祭も無事に迎えられたし、
やっとマツを育てることの喜びが分かってきました。
土いじりはもともと好きで、家の庭の植木の手入れも自分でしますし、
野菜も育てていますが、松林をタネから育てるというような、
ご先祖がやってこられたことをまさか自分でやるとは思わなかったですよ。
まだまだ元気ですから、75歳ぐらいまではやるかな(笑)。
≪震災への関心、風化が心配≫
復興の進展具合には、同じ名取市内でも差があります。
閖上地区は被害も大きく、人口も多い。
さらには先祖代々からの住民と新興地にあとから移り住んだ住民とが混在し
元々住んでいた住民が少数派、しかもこの辺とは違って漁業関係者が多い、
というようなさまざまな要素が、復興計画のまとまりを阻んでいます。
比較的復興が進んでくると、今度は震災に対して関心が薄れてくるのも、
ある意味自然なことではありますが、町内会長として、
何とかこの名取にとっての海岸林の重要性を理解していってほしいと思っています。
地道に新しい人たちにも声をかける以外に妙案はないですね。
この間も、オイスカの吉田さんにチラシをもらって周辺全戸に配布しました。
ボランティアに参加してくださる人も何人かあって、
皆さん、あの300m幅に植えられたクロマツの列を見ると感心されます。
県内外からも多くの関心が集まるといいですね。私もがんばります。
インタビュー文責:徳田祐子(オイスカ本部ボランティア)
インタビュー日:平成26年7月25日
こんにちは。浅野です。
先月末にインタビューをしに名取へ行ってきました!
と言ってもインタビュアーは私ではなく、ボランティアの徳田さん。
徳田さんは本職はライターなのですが、
東京本部で週2回ほど、広報を中心にボランティアをしてくださっています。
まずは武田昭夫さんのインタビューを2回に分けてご紹介します。
≪町内会長として復興に率先≫
私の家は海から約4㎞内陸にあります。
わが家周辺は津波による冠水が45㎝になりました。
うちの畑には幸い海水は入りませんでしたが、
町内(本村)の被害は、64戸中、床上浸水1軒、大規模半壊5戸。
あまり顧みられることがないのですが、屋敷林の津波被害というのも見過ごせませんで、
津波の入った屋敷林は震災後1年で枯れてしまったんです。
屋敷林は64戸ありましたが、うち35戸の屋敷林が枯れてしまい、
名取市に掛け合って伐採をお願いしました。
復興を受け身で待っていても意味がないというので、
まず自分たちの生産組合を中心に復興組合を立ち上げました。
地元でできること、できないことを仕分けして、みんなで瓦礫を片付けたり、
農業用水の修復などに精を出す一方、重機を使用するような事は市の方にお願いをしました。
お陰で震災の翌年の5月に田植えができました。
うちの地区の動きは総じて早かったと思います。
≪震災の翌年、海岸林再生の話を聞く≫
町内会長仲間である鈴木英二さんや、大友英雄さんたちから、
海岸林の再生の会のことは以前から耳にしてはいましたが、
私にも参加してほしいという依頼がきたのは、震災の翌年です。
ぼくらの地区の農地が1年で復興したので、今度は海岸方面を手掛けなきゃと
思っていたところだったので、一も二もなく協力しました。
昨年(2013年)の夏ごろ会員登録をして、秋から活動に参加しました。
≪海岸林には格別の思い出が≫
小学校のころ、広浦の南側、貞山濠の西側に、
ぼくらの「学校林」(仙台空港北側・海より2km)があったんです。
マツだけの林でね、それを一生懸命手入れしたものです。
それが全国一の学校林として、優秀賞をもらったことがありました。
(全国学校緑化コンクールで昭和27年準特選、翌28年特選)
小学校も4年生になると、5、6年生と一緒に、冬は松ぼっくりを拾いに
海岸まで1時間の道のりを歩いて行くようになります。
南京袋と呼ばれた麻袋いっぱいに松傘を詰めて、
さすがにそれは牛車で学校まで運ぶのですがね。
夏は、い草干しの思い出ですね。
昭和30年代から50年代まで、この下増田は東北地方有数のい草の産地でした。
わが家は非農家で、父は農協勤務でしたが、田畑も3反歩ぐらいあってい草も作っていました。
い草刈りは夏が本番です。
子どもの背丈ほどになったい草を刈ったあと、白い泥水状の石灰顔料に浸すんです。
それを早朝に、北釜海岸まで持っていって砂浜に広げるんです。
い草が乾く間、松林の中でご飯を食べたり寝転んだり、
子どもは海で泳いだり、楽しい時間を過ごしたものでした。
母方の祖父母の家は、現在の仙台空港の東のほうにありましたが、
そこでもい草干しはもちろん、祖母などは砂浜にハマボウフウを植えていました。
ハマボウフウは毎年、新芽を摘んでそれを酢味噌和えにしたり、
大量のハマボウフウを味噌漬けにして食べたものです。
松林は私たちにとってごく身近な存在で、あちこちに植林の碑があります。
下増田公民館には、初代の阿刀田義潮村長の植林の碑があります。
名取は、伊達政宗の時代だけではなく、明治の後半から昭和にかけても
地元民を巻き込んで植林をしてきた町だということをよく聞かされていました。
②へ続く…
大阪マラソン チャリティランナー決定!
今年10月26日(日)に開催される第4回大阪マラソンのチャリティランナーが決定しました!
プロジェクトの趣旨に賛同していただいたランナーは総勢24名。
支援企業・労組、一般から名乗り出てくださいました。
オイスカ職員からも女性2名が走ります!
チャリティランナーは、
Justgiving Japan(世界最大の募金サイトの日本版)のサイト に
自ら登録して、チャレンジ宣言を行います。
9月末までに目標金額達成に向けて、
SNSなどのツールも大いに活用しながら募金活動を行います。
ランナー一覧、ご寄附はこちらから。
ぜひチャレンジの様子をサイトからご覧いただき、
ランナーの方に応援コメント、ご寄附をお願いします。
本番まであと、2ヵ月。
みなさん、応援よろしくお願いします!
山元町、亘理町の海岸林復旧現場
宮城南部、山元町、亘理町の海岸林復旧現場を
久しぶりに見てきました。震災以降、何度来たことか。
「●●会社が●ha取った(落札した)」
こういう話を時々聞いていましたが、名取の現場で精一杯。
とても見に行く余裕はなく.
我々は公共工事と異なる枠組み.
方法論は違いますが、「復旧」「復興」という大目的ではまったく同じ。
天候に恵まれましたが、クロマツのコンテナ苗はどこも好調のようです。
壮大な規模で工事は進んでいます。盛土工事も次々と。
植え付け後の光景は、やはり美しく見えます。そして励みになります。
作業にあたった方は、自分の仕事を振り返って、誇りに思っているのではないでしょうか。
日曜日ですから、職人さんの話を聞くことはできず残念。
どこに行っても排水施設は真っ先に完成しています。
だからこそ、一層、地盤沈下の現実を感じます。
背後の農地、集落を見ると、時が止まったままの場所は多く、
傷跡は生々しい。いまだ道半ば。ですが、来るたびに生活感が増している感じを受けます。
秋には、亘理に日帰り温泉が再開します。
再生の会の事務局のKさんの自宅跡はすぐそば。
海はやっぱり綺麗でした。
次は、太平洋を見ながらゆっくり風呂に入ろう。