1ヵ月ほとんど雨が降っていない
もう1ヵ月、まともな雨が降っていない。
佐々木統括とは今日もこの話になった。
海岸林の現場でも、10㎜以上降らないと、苗床でも植栽現場では降ったうちに入らない。
表面が湿るだけで根には届かない。
昨年も一昨年も、3月だけで150mm以上降っているのに、今年3月はたったの5.5mm。
その中でも、クロマツは何とか頑張っています。
再生の会の森幸一さんは、「苗の色が濃い緑色に変わってきた」と言っていた。
植栽現場で心配しているのは、昨年の秋植え苗。
ですが、この乾燥状態でも大善戦。
枯死率は1%程度のまま、推移しているように見えた。
今日も全体を駆け足で見てきたが、特に異常なし。
今日の再生の会は14人勤務。ひたすらコンテナの土詰め。
第2育苗場からも毎日1人が交互で来てくれる。
うち3人は、種苗組合の総会に出席。
昨年は4月前半は大雨続き。根腐れを心配した。
来月の予報は、日替わり、不安定とニュースで言っていた。
今年も4月20日頃から植栽を開始予定。
経済同友会小林代表幹事、復興庁岡本事務次官ご一行72名の現場視察
報告が遅れましたが、今年も3月11日、全国経済同友会の視察団にプロジェクトを視察
いただきました。小林喜光代表幹事ほか72名。毎年のことながら、やはり緊張します。
今年は、岡本全勝(おかもとまさかつ)復興庁事務次官を筆頭に同庁幹部5名も含まれ。
初めての復興庁の方とのコンタクトが、いきなり事務次官とは…
次官が来られると聞いたのは3日前。視察ルートも変更し閖上を通り、かさ上げ住宅などを
車中から視察することになりましたが、別に困惑するようなことではなく、「年に一度の機会、
オイスカの海岸林の視察を通じて、関連する方たち全体が良ければよい」と毎年思っています。
至急、ゲートを管理する各建設会社との調整、当局への情報シェア、ルート実踏を行いました。
こういう時、普段の各セクターとのチームワーク、信頼関係がありがたい。
林野庁は仙台森林管理署の小澤署長、海岸林復旧室の村上室長が、名取市は佐々木市長、
石塚副市長、復興部、生活経済部の幹部が当日対応に乗り出してくださることに。
宮城県庁は議会中。「国も市も来て県の代弁もするので、ご安心を」と。
朝8時にバスに同乗し説明しながら出発。順調に名取入りし、5叉路を曲がり閖上に入った。
あれ、やられた!道が変わってる。この前までの大通りがない…
迷路に入ってしまったように思いました。
工事の都合で道は変わります。昨日まであった道が突然通れなくなるのです。
ここだけは下見しなかった(笑)でも、港の方の遠くのダンプの動きが見えて、
土手沿いの道に出ればイイと閃き。でも、1分ぐらい時計が止まりました。
そういうときも、岡本事務次官が自らマイクをもって説明を続けてくださって。
肝心のプロジェクトの説明はオイスカがするのですが、今回は圧巻でした。
当局とは合流場所と時間を決めていただけ。打ち合わせは一切なし。挨拶だけと。
しかし、市長、仙台署はともに、オイスカでは決してできない「挨拶」をして下さいました。
一瞬、込み上げてきそうになりました。私は何も説明することがなくなりました。
これが僕らの5年間の象徴でした。
ご一行は車中でも現場でも質問が多くてリズムをつけやすく、あっという間でした。
小林代表幹事からは直接、温かい評価をいただき、あらためて時間をいただくことに。
岡野常務理事からは「今年も東京で報告会をやろう。将来ビジョンの調査も引き続き応援したい」
事務方中核のHさんからは「僕も調査に加わってみたい」と。←「行け!行け!」(常務)
今年も3.11は名取で迎えました。毎年、怒涛のようなスケジュールですが。
風もなく、穏やかな日の視察で良かった。
名取市の海岸林史聞き取り調査 昭和28年 下増田小学校「全国学校緑化コンクール」特選(全国第1位)
昭和27年 全国学校緑化コンクール 準特選
昭和28年 同 特選
戦争の荒廃から国土を復活すべく、国土緑化推進機構が昭和25年から開始した、
国土緑化運動の一環で、学校林活動も盛んにおこなわれるようになりました。
そのコンクールで全国優勝したのが、名取市海岸林再生の会のメンバー全員が通った
下増田小学校。しかし、なにせ子供の頃の話。学校植林と言う言葉はみんな知っているんだが。
地元でいう通称「学校植林」に関し、私がこれまで聴いてきたみなさんの話を総合すると…
空港北側の北原東地区、鈴木堀に沿った(現在は地盤沈下し海抜ゼロm地帯)水田の中に、
約300m弱四方の造林を行った。樹高5m、細かった。10年生ぐらいだったのではないか。
南北に幅3mほどの水路、切り上げた土で幅5m程の松林。南北に何重列もバーコードの様に
なっていた。切り上げた土は水面から60cmぐらいの高さで、落っこちて登れなかった。
水路には魚もいた。特選を取ったので全国植樹祭(宮城県大衡村)に代表が参加した。
その後、いつだかわからないけど、全部伐ってしまった。
吉田:「相当手がかかる造林地。そもそもの目的がよく分からない・・・(笑)」
内陸防風林というより、手っ取り早く、足場丸太か、薪が欲しかった?
名取市の海岸林史聞き取り調査 鈴木英二 再生の会 会長 (要旨)
戦後、私は上海から引き揚げてきた引揚者。
だから集落は閉鎖的に見えた。
戦争の混乱により、私自身も数奇な運命をたどった。
名前も3度変わり、鈴木家に入り。
増田中学校の科学の教員に奉職した。お礼の意味を込めて9年勤めた。
昭和30年、仙台空港が開校した際、今の会社を(三英駐車場)
父と共に興した。
北釜集落は約100世帯。半農半漁。
小さい舩も持っていている家が多かった。
ちょうど今の時期、春はホッキ貝の貝殻がどの家にもあった。
この頃はまだ非常に貧しく、電気がない家もあったし、ドアが
ムシロの家もあった。子どもの多い集落だった。
北釜にも、隣の相野釜(岩沼市)にも分校があった。
空港ができる前はみんな、今の空港内に畑を持っていた。
北釜橋ができたのは大正。それまでは船で渡っていたと聞いていた。
水田は耕谷集落の小作人だった。そこへ行くことを「ダンポさんに行く」と言った。
松林に入ることを「御林(おはやし)に入る」と言った。
毎年冬、数日間かけて、「北釜海岸林保護組合」の組合員約80戸総出で「松葉さらい」をした。
熊手で松葉をまとめたものを「マルキ」と呼んで、燃料にしていた。
海岸林保護組合は5年前の津波で解散した。
空港拡張に伴い、代替地として松林の国有林70haが払い下げられた。
その農地をパイロットプロジェクトと読んだ。
日中国交回復で、角栄さんがチンゲン菜を日本に持ち込んだ。
北釜の砂地はチンゲン菜がぴったりだった。
一気に北釜の農業は飛躍した。
名取市の海岸林史聞き取り調査 3月18日北釜耕人会にて (要旨)
まさに海岸林とともに生きてきた方からの聞き取りです。
2011年5月24日、最初に海岸林再生への参画を決めた方たち。
今期は毎日1人第1育苗場に出勤して下さってます。
再生の会のまとまりも、安定飛行体制です。
高梨仁さん :「私は3代目です。山形から移住したようです」
森清さん :「私は5代目です。幕末頃、北釜に来たようです」
櫻井恵子さん:「主人はインフルエンザで寝込んでいます。私は嫁で来ましたが、
14代目と聞いています。松林に行くことを「ヤマに行く」と言ってました」
森清さん :「北釜の近年は開墾・開拓の歴史です。それまでは「犬にぶつける土もない」と
言っていたぐらい。イイ田んぼもなく。陸の孤島でした。やっと貞山堀に
橋が架かっても、欄干橋で「牛も渡れない勾配で」。空港のところは桃畑でした。
私は子どもの頃、今でいう県有林のところで、母と一緒に植林した記憶があります」
高梨仁さん :「私も植えました」
高梨やよいさん:「私は嫁で来て、松葉さらいをしました。いつまでたっても上手く出来ません
でした。いい思い出はありません。煮炊きや五右衛門風呂で使う燃料です。
難しいんですよ。熊手で直径1mぐらいにまとめます。そこまでしか、させて
もらえませんでした。指の皮がむけたことを覚えています。
その後はベテランが松葉がお互いに組み合わさるように圧縮します。
そうしてできたものを「カッツゲ」と言います。表現が難しいですね。
「カッツゲ」を重ねたものを「マルギ」と言います。重ねて結ぶことを
「マルグ」と言います。海岸林保護組合つまり、ほとんど村中総出、
1週間で1年分の燃料を集めるんです。牛や馬車、リヤカーで運びました」
吉田: 「今度、やってみてもらえませんか?動画に残しますから」
高梨やよいさん:「そうね。櫻井勝征さんはきっと上手にできるよ。あの人何でもできるから」
もっとたくさんお話しいただいたのですが、詳細は菊池先生や
小林さんに譲ります。
男性だけでなく、女性にも話を伺うことが出来たのが良かったです。
平成21年「北釜写真アルバム」という初めて見る写真集をご提供
いただきました。
鈴木英二会長からは「鈴木三雄氏(会長の父)との病床対話の記録」も。
あらためて聞いてみると、新資料が発掘されます。
津波で失った記録も多いのですが。
最初の調査は、一旦ここでおしまい。
次は菊池先生のスケジュール次第。
現場に近い私が勝手に先行させてもいけないし。
先生といろいろ相談しながら進めます。
名取市の海岸林史聞き取り調査 3月17日第1育苗場にて (要旨)
菊池慶子教授:「名取では1650年頃から海岸林植栽が本格化したと考えています。
知行地が近くにあった2代目川村孫兵衛の手で。1800年~1803年に東日本の
測量をした伊能忠敬も名取を通り、「北釜50戸」との記述と海岸林の記載を
図面に残しています」
コンテナ土づめが終わった後、座談会のような感じで、おもむろに始まる。
櫻井勝征さん:「夏は涼しくて、住みやすいイイ村だった」(開口一番)半農半漁。
船もあったけど、地引網もやっていた。サツマイモ、特に麦を作ってたね」
森清さん : 「まとまりのイイ村だった。運動会は下増田村の7集落対抗。
松林の中で綱引きの練習をして」
森清さん :「1週間で1年分の松葉掻きをやった。
女の人だけでなく男の人ももちろん。
どこの家も鉄砲風呂か五右衛門風呂だもんね」
武田昭夫さん:「私は本村地区(海から4km)に住んでいるが、
お袋の実家が北釜だから、よく行った」
櫻井勝征さん:「昭和30年ごろは堆砂垣を作って砂丘を造成し、
その上にマツだけ植えていた。
1本1本に葦簀で風除けして」
武田昭夫さん:「大潮の時は、貞山堀が逆流し溢れた。増田川は
イオンの近く(海から7km先)」
森清さん :「内陸防風林(共有林)は7つの集落で所有した。皆が少しずつ土地を提供して
設けたと聞いている」
吉田 :「学校植林の石碑が突然消えてしまったが、何か知らないですか?」
*昭和28年全国学校緑化コンクール特選(全国1位)の記念碑。同27年は
準特選。約8haの造林をしたらしいが詳しい事情がわからない。
石碑の文面は写真に収めましたが。
森幸一さん :「100m流されて、おらいの田んぼの中にあったんだ。その後はわがんね」
菊池先生 :「工事の混乱で各地で石碑などの文化遺産が喪失している」
森清さん :「今でいうサイクリング道の南の方に大正天皇即位記念の造林碑もあった。
横に小さな石碑もあった」(これらも消息不明…)
これらの話は今までも聞いてきましたが、みんな自分の昔話は「大した価値がない」と、
そこそこで集中力が切れてしまい、打ち切ってしまう傾向があった。でも、今回改めて
豊富な情報があることが分かった。調査が深まるにつれ、質問も深まり、回答も深まる
事がよく分かりました。みんな時間を忘れて答えてくださいました。
名取市の海岸林史聞き取り調査に着手
3月17日・18日、東北学院大学菊池慶子教授の春休み(学生が休みになるの意味)に合わせ、
オイスカ海岸林チームに新たに加わる小林省太さん(元日経新聞論説委員兼編集委員)とともに
「名取市の海岸林史聞き取り調査」に着手しました。
宮城公文書館にあると言われる、江戸時代など近世の膨大な資料には、
素人の我々には手が届きませんが、昭和初期や戦中戦後など、私たちの周りにはまだ当時を
覚えている方がたくさんいるため、口伝や記憶を聞き取っておきたいと考えました。
まずはこの春は2日間。
再生の会の鈴木英二会長、桜井勝征さん、森幸一さん、武田昭夫さん、高梨仁・やよいさんご夫妻、森清さん、桜井恵子さん。
元名取市農林水産課の鈴木健仁さん、教育委員会文化スポーツ課と農林水産課。
今まで見たことない近代史の小冊子も2つ見つかりました。
宮城県庁も資料提供してくださいました。
次はまた先生のご都合に合わせて。夏頃でしょうか。
いま私たちチーム海岸林は3つの調査を行っています。
1.植栽地モニタリング調査(2014年~)
2.海岸林と地域の将来ビジョン形成調査(2015年~3年程度)
3.名取市の海岸林史聞き取り調査(2016年~5年程度)
いずれも時間をかけて実施します。
やりたいのだけれども手が届かないのが、飛塩調査……。本当は海岸林の存在意義を科学的に証明したいのですが、大学教授や専門家に尋ねてみても首を縦に振ってくれる人はいなかった。1950年宮城県林業試験所が石巻で実施した調査が唯一と言ってよいようだ。
自分たちでやると言っても……
【参考】 愛林碑の石は「稲井石」。仙台石とも言われるそうです。石の町、石巻から採ったのかもしれません。
仙台駅が大きく変わりました
ずーっと工事をしていた仙台駅。
駅ビル「エスパル」が本館に加え、「東館」がオープンしました。
ニュースでは、ボールパークに改装した楽天スタジアムのことも。
私にとって駅ビルと言うと、自分にご褒美の時だけ3階の立ち食い寿司でチャチャっと。
ちょっと時間があるときは、地下1階の仙台土産館。そのぐらいでした。
写真は、ヨドバシカメラがある東口と、いわゆる「栄えている方」西口との連絡通路。
今まではただ通るだけのような東西連絡通路が大胆に一新。
お昼をとうに回っているのに新しい食事処はすごい行列。
お土産屋も一新。4階ワンフロアのみ東急ハンズがありました。
新幹線乗り場には連絡通路側からも最短距離で行けるようになりました。
今日は土曜日。人でいっぱい。
微熱があったし、一人では全然おもしろくないし、
第二育苗場でいただいた背中のチンゲン菜8袋が重いので、
今日はチラ見で撤収。
ボランティアで来る人も楽しみが増えるでしょうね。
ちょっとはご案内できるようにしておきます。
新刊書籍のご案内 「仙台藩の海岸林と村の暮らし」菊池慶子 東北学院大学教授 蕃山房 定価800円
菊池慶子 東北学院大学教授と初めてお目にかかったのは、3年前。
企業団体担当者限定のボランティアで、再生の会と共に「苗の床替え」をした時。
私たちも海岸林の歴史には、非常に興味を持っており、かつ重要と思っています。
ですから、先生とはすぐに意気投合し、学生を連れてボランティアに何度も。
先生は宮城の海岸林の歴史の研究をライフワークとされています。
http://researchmap.jp/read0038844/
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/faculty/letters/history/staff/kikuchi.html
去年好評だった、ボランティアの日の昼休み「プチ海岸林史」講座はまた今年も。
たまたまその日は運よく、三浦副市長を筆頭に市役所職員が多数。
先ほど、新刊の小冊子「仙台藩の海岸林と村の暮らし」(蕃山房 定価800円)を
お贈りいただきました。先生はいつも届けてくださります。もう4冊目。
詳細・購入手続きはコチラ(蕃山房HP)
http://banzanbou.com/annai/
いつも書籍に、このプロジェクトの事にも触れてくださっています。
すぐ拝読。これは皆さんにお知らせしようと思いました。
先生とは、「いつか名取の海岸林史を調べて残したい。年配の人の話を聞き取って残したい」と
話してきました。いよいよ明日から2日間、「名取市海岸林史聞き取り調査」に着手します。
中心メンバーには、菊池先生と元日経新聞論説委員の小林省太さん。
ゴールとか、成果物とか、期間など、今の時点ではあまり明確に設けていません。
少しづつ、まず始めてみようと。
昨日、菊池先生は電話で「研究者としてのプロボノのようなもの」と言っていました。
歴史研究家として、プロとして、ボランティアで協力したいという意味と思いました。
調査成果は、ブログでも即アウトプットします。
海岸林チーム 東京でのひとコマ②
こんにちは。浅野です。
海岸林チームの本部事務所でのひとコマをお伝えします。
今日は林広報室長。
新しいパンフレットができてから、ボランティアの方に
挟み込み作業をしていただいています。
その挟み込みが終わったパンフレットをきれいに整えるのは林室長。
これが主の仕事ではないはずなのに、やりすぎてプロになってしまいました。
整えている間に挟み込みがないものや2枚挟み込んでしまっているものを
瞬時に見つけられます。
この写真を撮った直後も「あ、これ入ってない」「あ、これもだ」
見ると、本当に入っていない。
完全にプロ。
「毎日、これだけの量やってたら誰だってできるようになるんだよー」
と満面の笑みで話す林室長
…私もできるように頑張ります。