広報室の林です。
今年も「ボランティアの日」の活動がスタートしました。
毎月現場に通うことになります。
今回は16日のボランティアの日の前日、東北学院大学の菊池先生による
海岸林の歴史に関する聞き取り調査に同席させていただくことができました。
DSC_0004今回は第二育苗場の皆さんに集まっていただき、吉田が以前報告していた国土地理院のHPで見られる古い航空写真を見ながら先生が地図から読み取れることを説明したり、推測できることが皆さんの記憶に残っているかを確認したりというものでした。
皆さんが生まれ育った北釜上空を米軍が昭和20~30年代に撮影した写真などを見ていると
「この道通って小学校通ってたんだ」
「こいつぁ、●●さんの家だぁ」
などなど具体的な話がたくさん飛び出してきました。
一番面白かったのは先生が堆砂垣の話をしたときのこと。
上空から海岸に白い筋状のものが確認でき、堆砂垣を作っていたのではないかと。
(堆砂垣についてはこちらで説明しています)
すると
「うちのばあちゃんが夜なべして編んでた」と水辺に生い茂っていた葦などを
刈ってきて、それを堆砂垣に使うヨシズを編むために各家庭で内職のような
形で毎晩作業をしていたのだとの証言が飛び出したのです。
女性からも「嫁いで来た時ずいぶんさせられた」と。
今までそんな話、聞いたこともなかったのに・・・・・・。
写真の力ってすごい!
翌日の準備のため途中で退席。ずっと聞いていたかったなぁ~残念!!

今年も4月から11月にかけてボランティアの日を設けて活動します。

第一回の活動日は定員50名のところ90名を超えるお申し込み。
実際には95名が参加。スタッフも入れると100名での活動となりました!!
DSC_0013
嬉しかったこと。
昨年3歳で参加してくれたおちびちゃんが今年もご両親に連れられてきてくれたこと!
(記念撮影では横断幕の前に陣取りました!! ニコンの社名が入ったビブスは
まだブカブカでしたが、それが何ともかわいかった!! 遠くからのご参加ありがとうございました)

それから名取市民の個人参加者も増えてきたこと。自転車できてくださった方も!

活動レポート、少しずつアップしていきます。

今回も企業・団体ごとに赤・青・黄色などのビブス着用。色とりどりのボランティアの一団です

今回も企業・団体ごとに赤・青・黄色などのビブス着用。
色とりどりのボランティアの一団です

最も忙しい時期に突入

2016年4月15日( カテゴリー: 現場レポート )

今日は突風。風速28mの蔵王おろし。明日は穏やかなようですが。
昨日の雨で、水溜りもあちこちに。
今年初のボランティアの日が近づいてきました。
あっという間に参加者が90名を越えました。6月も締切寸前。
例年通り、続々と申し込みがあり嬉しく思っています。
私自身、明日の午後まで東京を離れられず、2週間現場は見ていないのですが、
4月上旬に2日間で、昨年4月のひと月分、約100mm雨が降りました。
土がよい状態で植栽できることを念じています。
3月末の現場ではヒバリがたくさん飛んでいました。
そろそろ植栽地のマツの近くに卵を産むことでしょう。
ボランティアの皆さんに「踏まないでね」と言わなくては。

本当にヒバリの卵なのかわからないんですが・・・違ったら教えてください

本当にヒバリの卵なのかわからないんですが・・・違ったら教えてください

お互いに声を掛け合いながら仕事することが大事だと、今年も伝えてゆこう

お互いに声を掛け合いながら仕事することが大事だと、今年も伝えてゆこう


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ボランティアの日の仕事のメインは、植樹祭の準備。
植栽箇所10,000本分のマーキングを午後行うつもりです。
昨年の様子はコチラ。
http://www.oisca.org/kaiganrin/blog/?p=10465

たぶん土曜日だけでは終わらないでしょう。
その他にも仕事はあるのですが、最終的には統括と前日決めて段取ります。
再生の会は、3月上旬から続いた播種の準備「コンテナの土詰め約100,000粒分」を終え、
育苗場の除草や、5万本の植栽準備に突入しています。
週末から怒涛のような日々が始まります。
東京のオフィスで、一人気持ちが高まっています。
皆さんと会ったら、大きな声で挨拶して、緊張をすべて吹っ飛ばそう。

玉虫左太夫のこと

2016年4月14日( カテゴリー: 省太のつぶやき )

玉虫左太夫

玉虫左太夫


仙台藩といえば伊達政宗をはじめ藩主の何人か、そして伊達騒動
の原田甲斐、江戸期早々にヨーロッパに渡った支倉常長。
そのくらいしか人物が思い浮かばなかったのですが、
最近、玉虫左太夫という名を目にしました。
幕末の仙台藩士です。
彼が歴史に名をとどめている大きな理由は、万延元年(1860)に
条約の批准書交換のため幕府がアメリカに派遣した使節団に加わり、9か月の旅を「航米日録」という詳細な記録に残したからです。
彼はすでに蝦夷地〈北海道)を訪ねた折の綿密なルポを書いていて、そのことで武士としては高い身分でなかったにもかかわらず、
いわば「記録係」として使節団に加わることができたようです。
当時30代後半だった彼に、
「絶好の機会だからアメリカをとことん見てやろう」
という強い気持ちがあったのも間違いないでしょう。
さて、記録の中身です。なにぶんこちらも勉強中で偉そうなことはいえませんが、一言でいえば、
アメリカの中の先進性に目をつけ、その目で日本や日本人を批判的にみつめている、
とでもまとめられるでしょうか。
しかし、左太夫を知って何より感じるのは記録に残すことの大切さです。
およそ150年前のアメリカの様子はもちろん、そこに乗り込んでいった使節団の面々の意識、
それは野望や大志であったり、驚きであったり、あるいは強者に対する卑屈であったりするのですが、
それが手に取るように伝わってくる。記録の価値は、時間がたっても色あせることはありません。
宮城県名取市の海岸林再生プロジェクトに関連して、江戸時代に始まる海岸林の歴史だけでなく、
古くからの地元の生活や風俗、習慣の移り変わりも、聞き取りを重ねて記録に残そうという作業を
先月から菊池慶子・東北学院大学教授が中心になって始めました。もちろん、海岸のクロマツ林再生の
営み自体も後世にきちんと伝えなければなりません。
仙台藩士・玉虫左太夫にはまた触れる機会があるでしょうが、
この地の先達を知ったことで、記録への意欲をかきたてられた次第です。

4月8日から大阪マラソンのエントリーが始まりました!
今年は当プロジェクトの責任者、吉田が走ります!
もちろん、すでにエントリー済み。
他にも4名の方がエントリーしてくださっています。
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一般ランナーは倍率5倍の狭き門を通らなくては走ることができないのですが
チャリティランナーになると7万円をどうにかして集めれば走ることができるのです!
7万円なんて大金…と思う方もいるかもしれませんが、自分が全額払わなければいけないわけではないのです。
家族・友達・職場から募金をしてもらって参加権を得ることができる。
募金してくれたみんながランナーの応援団になるということです!
エントリー期間は4月8日~7月29日(金)まで。
募金を集める期間はエントリーをした瞬間から9月30日(金)まで。
早めにエントリーをすればその分、募金を呼びかけられる期間も長くなります。
走るのが好きな方!
吉田も生まれて初めてのフルマラソンです。
一緒に走って海岸林再生プロジェクトへの支援をしてください!!
エントリーはこちら → http://osaka-marathon.com/2016/runner/entry/apply_c/

身近なところにあった!

2016年4月11日( カテゴリー: お助け隊員の声 )

浅野です。
愛知県にあるCKD株式会社を訪問してきました。
CKDの担当の方から大阪マラソンにチャリティランナーを出していただけるという連絡があり、
ぜひお話をしたいと思っていたところ、たまたま愛知に行く用事ができたのでこれはチャンス!と
訪問させていただくことになりました。
CKD株式会社は1943年に設立され(当時の日本航空電機株式会社)戦時中は零戦の電装部品などを作っていて、
今は自動機械装置や空気圧を利用した製品開発を行っているそうです。
ショールームにも連れて行っていただいて、技術の説明をしていただきました。
説明を伺って理解したのは工場にある自動で動く機械の中にはCKD製の部品が何百・何千・何万という単位で入っているということ。
工場見学に行ったことのある人ならピンとくるかもしれませんが、行ったことのない人には全く未知の世界かもしれません。

ショールームの中は撮影禁止ということで遠目から

ショールームの中は撮影禁止ということで遠目から


説明を理解しようと頭をフル回転していたら、ショールームの最後に見覚えのあるものが!
薬やこんにゃくゼリーなどはCKD製の自動包装システムを使って包装されていたのです!
誰でも見たことのあるこれです!

誰でも見たことのあるこれです!


このハート形にもちゃんと意味があるんです。

このハート形にもちゃんと意味があるんです。

薬の包装シートの約80%がCKD製だそうです。
ただ、どこにも書いていないので気付く人はいないそうですが…。
こんな身近なところにCKD製品があるなんてびっくりしました。
結局、1時間以上滞在してしまい…
貴重なお時間をいただいてありがとうございました!
大阪マラソンでのご参加お待ちしてます!!

徳島県最南東地域、海陽町の「大里松原」
「白砂青松100選」に名を連ねます。ですが、事前予習で調べてみると殊の外、
情報が少ない。専門家もあまり訪ねていないのだろう。

大里松原のような自然のインフラがない集落は、何が何でも避難タワーを作るしかない。

大里松原のような自然のインフラがない集落は
何が何でも避難タワーを作るしかない。


南端から見た全景。褒め過ぎかもしれないが、「隙のない」見事さ。

南端から見た全景
褒め過ぎかもしれないが、「隙のない」見事さ

少ない情報ながら興味深かったのは、
・中学生がプロの指導のもと、卒業記念に1mの大苗を植えている
・不届き者が、門松やお供え物用に伐って、30円~70円ぐらいで売ってしまい、
地元の方が徳島新聞の記事にまでして、非常に怒っている
・江戸時代中期、後背地の荒れ野原「四方原」を開拓するのに伴って松原を造成
南端の後背地から見て、目を見張った。
延々たる砂山の上の松群。徳島県が最新情報として出した浸水予想で、
ここの後背地に津波が侵入しないのがよく分かった。

北端付近展望台から見た全景。展望台の中2階まで砂が上がってくる。

北端付近展望台から見た全景
展望台の中2階まで砂が上がってくる


しかも、松枯れが視界の中に見当たらない。
地元の方の巡視、発見、即通報、行政の速やかな伐倒駆除が徹底されている。
佐賀の虹ノ松原の関係者の誇らしげな一言を思い出した。
「松くい虫被害はhaあたり年間1本以下」。ここもそうだろう。
松くい虫対策は、市民協力による「即通報」、行政の「即伐倒駆除」に支えられていると感じた。

松くい虫対策は、市民協力による「即通報」
行政の「即伐倒駆除」に支えられていると感じた


同行の四国支部池田次長も目が肥えている。一人の目よりも二人の目。
「マツ林と墓地というのは面白いね」と。うん、確かに見たことない。
墓地は内陸側にあり、もちろん綺麗にされているが、松林に入ると、下草で青々しているが、
墓地と同様の見事に人の手が入っている。地元の人の想いや協力体制を見て取った。
徳島ではかつて内陸側にはクスノキを積極的に植えたようだ。
この理由はわからなかったが、クスノキとは思えない細さだが、高さだけは十分。
クスノキの特徴として、下草も生えにくい。
「地元の方は、明るくて見通しの良い海岸林であってほしいと考えてるのではないか」
と池田次長。内陸側にこれも非常に整えられたお社が接していて、掲示されている
写真などからして、村のお祭りは松林とともにあることが分かった。
松林の前の手洗い場やベンチは砂で埋まる。

松林の前の手洗い場やベンチは砂で埋まる


極めつけは、充実した林内ゲートボールコース。
参加費300円の大会通知が貼り出され、次々と予告されている。
潮害防備保安林でも、ここまで利活用できるのか。
「スナック円」「いらっしゃいませ」。ゲートボールインフラも完璧。

「スナック円」「いらっしゃいませ」
ゲートボールインフラも完璧


今も昔も人とともに生き、愛されている松原を見ることができた。
名取の松原は、集落と接することはない。
そうだったとしても、名取の条件なりに、愛され続けるような展開にしてゆきたい。

徳島県庁から復興の応援職員として来られた方に、仕事でお世話になった。
その方の顔を思い浮かべながら徳島に行きました。
まず、海沿いの徳島空港(松茂町)の滑走路を直交するように防風林がある。
米軍撮影の航空写真では、1947年時点で幅は狭いながらも海岸林が存在していたのが分かった。
空港に実際に行ってみて、高さ5・6mの均一な土堤上に、松の巨木が延々と列を成していた。
あの場所でこの太さ。樹齢200年を遥かに超えるのでは。
想像するに相当昔の人が、自然砂丘に人の手を加えて盛土を造成してから、松を植えたのだろう。
後背地には、空港の他、水田が松林の後ろまで迫る。

目の前は海なのにこの高さ。日露戦争後の篤志家がこの防潮林も植 え、地域の産業を発展させたこと等を讃えた碑があった(高知県東洋町甲浦)

目の前は海なのにこの高さ。日露戦争後の篤志家がこの防潮林も植え、地域の産業を発展させたこと等を讃えた碑があった
(高知県東洋町甲浦)


ネットで公開されている徳島の海岸林の文献は少なく、航空写真でも解かりかね、
正直なところ、あまり期待してなかったが、行ってみると幾つもの小さな名もなき松原があり、
「防潮林」として予想を超えた高機能なものが多く、弱い部分には手を入れて強化されていた。
名もなき海岸林の存在と、目に見えた努力が成されていることがよく分かった。
大地震が起こったら、すぐに津波第一波が来る高知県東洋町の生見海岸や徳島県海陽町の大里松原
(白砂青松100選)、また、すぐには来ないとしても津波水位10mに迫るような阿南市の北の脇海岸、
中林海岸などすべてで、2階建て家屋2つ分以上の高さの、もはや砂山と言うべき自然砂丘を利用していた。
砂山前面を利用した数mの防潮堤もあったが、それを砂が飛び越えてくるのも分かった。
かつては深刻な砂の害もあったのだろう。後背地には開拓記念碑もあった。松林は開拓の一環だろう。
マツの深根性を活かした津波防御に大いに期待できる。実際に後背地の浸水予想は極めて低い。
内陸側にはクスノキの積極的導入も特徴。実生で育ったものは太いが、植栽と思われるものは
クスノキと思えないような細さ。しかし全般的に、クロマツ中心の森を目指そうと、
掻き起こし・天地替えをして篠竹や広葉樹を根絶やししてからのクロマツ林への樹種転換や、
林間植栽を地道に進めているのも共通点。ついこの前植えたような場所が驚くほど多かった。
最前列でも樹齢200年を遥かに超える、文化財クラスの巨木マツも目立った。
日本海側を思い出すような大きな自然砂丘上の潮害防備保安林。(阿南市北の脇海岸林)

日本海側を思い出すような大きな自然砂丘上の
潮害防備保安林。(阿南市北の脇海岸林)


竹や広葉樹の雑木を伐採し、地面を重機で掻き起こしてからクロマツを植栽(阿南市中林海岸林)

竹や広葉樹の雑木を伐採し、地面を重機で掻き起こして
からクロマツを植栽(阿南市中林海岸林)


 
 
内陸側に植林したと思われるクスノキ群。細いが樹高は高い。(海洋町大里松原)

内陸側に植林したと思われるクスノキ群
細いが樹高は高い(海洋町大里松原)


松原と集落の共同墓地が隣接している、もしくは林内に墓地があるケースも多かった。
人が松原と接し、利用すると言う面でも、考え方として好感を持った。
お参りする人もいれば、ゲートボールする人もいる。
神社もあり、村祭りの会場でもあり、花火大会もする。
「ふるさと」の中に松林があるのだろう。
共同墓地が多くの松原とともにあった。松原も地区の共有林なのかもしれない。(海洋町大里松原)

共同墓地が多くの松原とともにあった
松原も地区の共有林なのかもしれない(海洋町大里松原)

高知県東洋町 津波予想シュミレーション(youtube)
https://www.youtube.com/watch?v=VRJtPQYBfes
今回、四国電力の常務さん(徳島支店長)を通じ、徳島ロータリークラブから卓話の依頼。
気になっていた南海トラフ最前線を見る千載一遇のチャンス。
「とにかく高知県東洋町まではノンストップで行こう。目を慣らしてから復路でじっくり見よう」
徳島空港を降り立ち2時間。室戸岬に迫る県境の目的地まで、
徳島ラーメンを食べる時間も惜しみ、四国支部の池田次長とともに南下した。
県庁をはじめ県の中枢は海の近く。横には川。船がたくさん係留されている。
徳島市、小松島市、阿南市などは広範囲に浸水する。
でも、到着したばかりで目が慣れず、逼迫感はまだ感じなかった。
日常的に危機感を煽ってもいけないのでしょうから。
南へ行くにつれて、山が海に迫り、わずかな平地に人が密集して住む様子がわかってきた。
固い岩盤らしいですが木造家屋も倒壊するかもしれません。耐震化も緒に就いたばかりと見えた。
揺れの時間も長いかもしれない。でも収まったらすぐ逃げねばならない。
津波が来るのは早い。第一波はまだ低くて防潮堤で防げても、10分経つと町に侵入する。
勢いづけば、膝下の波でも圧力は100kg。

海抜2.4mに高さ約14mの避難タワー

海抜2.4mに高さ約14mの避難タワー


集落の近くの山裾では、とにかく無数の箇所で、徹底して伐採が行われている。
山に逃げる避難路を造るためと言うことは聞かずとも解かった。
東北でも避難路の有無によって生死を分けた場所がたくさんあっただろう。
その経路を示す看板が、至る所にある。私のような通りがかりの人もすぐ分かる。
これは最善の策の一つ。お年寄りでも登りやすい斜度の道を設けようとの努力も見た。
もし次来ることがあったら、もっと変わっているだろう。
 
山から離れた平地もある。こういう処は河口部。ここから侵入する波への対処は難しい。
大きな川でないので土手も低く、溢れやすいが仕方ない。何とか逃げるしかない。
河口部だから地盤も惰弱かもしれない。家屋の倒壊が避難を妨げるかもしれない。
「其の早き事矢を射るが如し」と碑文に刻まれている、
1854年の安政南海地震(午後4時頃)では、安芸郡全体で死者71名であったが、
1946年の昭和南海地震(午前4時19分)では死者17名。
一人も死者を出さない決意の、懸命な減災・防災対策が進んでいる。
強烈な危機感を感じた。
これは昔からある避難路。無数の避難路が山に伸びる

これは昔からある避難路
無数の避難路が山に伸びる


 
危ない河口部の横で伐採中。この伐り方なら、緩やかな勾配のつづら折りの避難路を造れるでしょう。

危ない河口部の横で伐採中。この伐り方なら、
緩やかな勾配のつづら折りの避難路を造れるでしょう


 
 
東洋町甲浦。「一人の被害者も出さない」という合言葉が印象的だった

東洋町甲浦
「一人の被害者も出さない」という合言葉が印象的だった

私の4月1日

2016年4月7日( カテゴリー: 本部発 )

今年も3月はしんどかった…
ため息をつきたくなる時って、皆さんもありますか?

いつも大きな声がうるさいといわれる私にですが、
オイスカ職員になって以来ずっと、毎年4月1日だけはちょっと元気が出ない日。
資金獲得に関する1年の成績がほぼはっきりし、またゼロにリセットされる日。
この先1年の途方もない仕事量を考えると、少し大人しくしていたくなる日なのです。

神田川の桜並木を見ても、何となく上の空。

プロジェクト全体を預かる身ですから。
「寄附収入でも前年を下回らない」と寝ても覚めても、自分に言い聞かせています。
震災前から職員歴20年間、これだけは変わりません。

ですが、全国の数えられないぐらい多くの皆さまのおかげで、何とか前年同様の支援額に
辛うじて到達することができました。上回るか、若干下回るか、最終の正確な金額は、
決算を待たねばなりませんが。

今、全日空機で徳島に向かっています。
「四国は4%経済」と地元の人が嘆くのを聞くこともありますが、
当プロジェクトにとって四国は寄附者が指折り多い地域。
理由はただ一つ。一生懸命プロジェクトを応援し、
支援の輪を広げてくれる人がたくさんいるから。

阿南市市議会議員の方と、LEDで有名な日亜化学工業㈱ (40年来のオイスカ法人会員。海岸林にも継続寄付)にもご挨拶に行きました。(4月6日)

阿南市市議会議員の方と、LEDで有名な日亜化学工業㈱
(40年来のオイスカ法人会員。海岸林にも継続寄附)にも
ご挨拶に行きました(4月6日)

飛び立つ時のGが体にかかり、活動報告の機会を演出してくれたオイスカ四国支部、
四国電力徳島支店、徳島ロータリークラブなどの皆さまが待っていてくださることを思い、
気持ちが切り替わりました。私たちに機会を作って下さり、本当にありがとうございます。

徳島ロータリークラブでオイスカ四国支部池田事務局次長と活動報告しました(4月6日)

徳島ロータリークラブでオイスカ四国支部池田事務局次長と
活動報告をしてきました(4月6日)


 
また今年度も、ゼロから這い上がります。
一歩一歩。必勝を期して。

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