「海岸林保護組合」 ~歴史は繰り返すか~
北海道にお住まいの元林野庁職員で、寄附者でもある方から、宮城県内の海岸林の歴史に
詳しい方をご紹介いただきましたが、私の都合が整わず、ようやくお話を伺うことができました。
「石巻・気仙沼地区 海岸林保護組合連絡会のあゆみ」(平成27年宮城県林業振興会復刻版)
こういう冊子をいただきました。初めて見ました。いただいた3つの資料は一晩で読み終えました。
震災前の平成22年に「連絡会」解散の際、連絡会によって作られ、震災後に復刻されました。
(巻頭抜粋)「驚くべきことに、この地域の海岸林が日本の海岸林事業の原点になっていることがわかりました」
昭和21年までに22の保護組合が設立され、昭和23年、宮城県海岸林保護組合連合会規約が制定。
昭和28年には38の組合が参加、昭和44年には、名取・岩沼、石巻・桃生、仙台、亘理の
4地区に連絡会が存在していた。「原点」というのは組織化されていたということです。
名取にも「北釜海岸林保護組合」があり、「愛林碑」があります。
宮城県北部は(石巻~気仙沼)は、名取と同様「地元の要望」があって、
県が雇用もしながら海岸林を造成した。カキ養殖の万石浦、石巻渡波地区の干物への飛砂防備などの理由。
しかし、2代目、3代目となるうちに、あって当たり前に。
平成21年にアンケート調査。ありがたみは薄れたと考えた。
公的機関で保全をお願いするしかないと思っちゃったんです。
物置、ゴミ捨て場、勝手に伐採して畑にしてる人もいるし。
平成22年に連合会は解散され、平成23年に津波が来た。
存在が注目された渡波地区海岸林などは、当時作った海岸林の
おかげで後背地の被害が少なく済んだのは客観的事実。
災害対応原則は「原型復旧」。
だとしても、もっと「何のために?」という世間への説明、
長期にわたる啓発活動が必要。
カタチも大事だが、魂を重視してほしい。
ご無念を思うと、いまの私には胸が痛い、重く突き刺さる言葉でした。
「今後、社会情勢などの変化により、必要性が高まったときには、この連絡会が再び結成される日がくるものと思っております」(巻頭抜粋)
1月24日、久々に宮城県立名取北高校に行ってきました。
私の弟は高校教員、娘は高校2年生。学校が受験シーズンで忙しいのも
少しだけ知っていますが、快くお時間をいただきました。
いつも校長先生が出してくださるお菓子とコーヒーをいただきながら、
生徒さんの日常や、行政関連の情報交換をしつつ、徐々に本題へ。
5月の植樹祭や下刈ボランティアの募集の前に、
地元若者に向けて、どう発信してゆくか。
「なぜ?何のために?」そういうことを理解して
参加してくれる人を、増やすために
どう手を打ってゆくか。北高以外の若い人たちにどう伝えてゆくか。
途中から、教頭先生とバリバリの中堅の先生が加わる。
校長先生が二人に自分の言葉で要点を伝えてくださる。
そして私が、なぜこういうことをお願いするか、さらに説明。
昨日のブログで書いたようなことに関連します。
そこから4人で具体的に・・・
続きはいずれ。
先生たちが生徒さんたちと考えてくださいます。
子どもたちのためにといって、
何でも大人が上げ膳据え膳しないのが私の信条。
青森から始まった1週間の出張も、最後まで充実しました。
「創造的復興」を目標とする宮城県震災復興計画は最終の3年に入り、
「発展期」と位置付けられています。私たちにとっては将来に向けて
具体的に手を打っていくことが肝要です。