1995年、私は社会人2年目。
ある巨大アメリカNPOと大手町で日々、向き合っていました。
そのNPOは霞が関や大手町・丸の内を席巻しているかの如くの勢いでしたが、
理念や運営方法、市民へのアプローチもオイスカと近いと感じ、
無力な一新人のくせに「なにくそ」と心底思いつつ、その裏、内心は興味津々でした。
経団連さんに頼んで、シンポジウムを一緒にやらせて貰ったり。
私は英語は話せませんので、経団連の職員の方に通訳を頼んで話しをさせてもらい、
その団体の日本部長の女性から、「ミッション」という言葉を教わりました。
BS放送というものが始まった頃だったと思います。
そのアメリカNPOの後方支援部隊、
つまり資金獲得部隊の様子がNHK-BSで放映されることをこの団体と引き合わせてくれた
神戸製鋼所や安田火災海上から経団連自然保護基金へ出向した方が教えてくれました。
支援の問い合わせ、資金の協力の申し出の手紙が、毎日届いていることを物語る、
箱の中に満載の映像が、一瞬、テレビに出てきたことを今も忘れません。
いつかそのような、共感を得られる現場を実践したいと思いました。
いま、箱一杯とは言えませんが、毎日寄附を寄せてiいただけるようになりました。
ここ2ヵ月ぐらい寄せられる寄附の6割方は、宮城県からです。
見知らぬ方たちが、しかも幾人の方たちが、単なる「イイね!」ではなく、
行動をして下さっているとしか思えません。
私たちには分かりませんが、いま、何かが起きはじめたように思えます。
と同時に、期待されることの怖さも知っているつもりです。
私はアメリカには一度も行ったことはありません。
英語は全く話せません。でもいつか彼女の力に追いつこうと、ずっと思っていました。
強く思えば必ず叶うという体験は、これまでも何度もありましたが、
何となく、背中が見えてきたのは間違いありません。
でもそれは、見ず知らずの、またはよく知っている「同志」の皆さんのおかげ。
多くの方の活躍の環境を整える、多くの方をつなぐのが、
私たちに与えられた「ミッション」とずっと思っています。