簡単な飛塩調査② ~10円玉設置~
プロジェクト担当の吉田です。
2012年7月8日、簡易飛塩調査として、5個の10円玉を次の箇所に設置しました。
1.名取市の被災海岸林、最も海寄りの場所(潮風が最も強く当たる。波打ち際から150m)

2.名取市下増田北原東のオイスカと海岸林再生の会「第1育苗場」
(海岸波打ち際から1.4km)

3.名取市下増田杉ヶ袋北、第一育苗場大友英雄班長の自宅庭
(海岸波打ち際から4km)
4.岩沼市南浜中央病院付近、林帯幅300mの海岸林現存の後背地
(海岸林が潮風を止めている場所)

5.東京都杉並区のオイスカ東京本部の庭
(潮風と全く関係ない場所)
現場に来た時に、断続的にレポートします。
「緑青に変わった」という去年聞いたコメントは、ちょっとイメージできないんですが
真黒になるんじゃないかと私は予想。皆さんはどう思います?
2・4の設置場所は、取られちゃうんじゃないかと、少々心配。
簡単な飛塩調査① ~10円玉設置~
プロジェクト担当の吉田です。 海岸波打ち際から9km内陸。 名取市高館吉田に第二育苗場があります。 この畑に最初に来たのは去年の7月末。 『北釜耕人会』として震災から2ヵ月で畑を借りて立ち上がり、 昨年5月末の第二中学校での最初の地元との協議で、 育苗参画に強く意思表示した3夫婦が力を合わせて 葉物野菜中心に取り組んでいる畑です。 その一部をクロマツの育苗に割いていただいています。 北釜は名取市最南東端の集落の名前。 耕人会。見事なネーミングですね。 今年3月9日、宮城県から払い下げられた2kgのクロマツ種子のうち500gをここに蒔きました。順調な生育です。先日、県の生育調査もありました。 第一、第二の2ヵ所の育苗場を設けたのは、 育苗場が自宅や自分の畑の近くであるようにし、また、 2ヵ所が互いに切磋琢磨しながら育苗しようと考えたためです。
400年前に戻ってしまった沿岸部
プロジェクト担当の吉田です。
先日、生態学関連の視察団を受け入れたとき、東北の国立大学教授が
「津波で400年前の姿に戻っちゃったんだね」と。
その感覚。その通りだと思いました。
実は我々チーム海岸林のメンバーの間では、聞き慣れた言葉です。

ここは、名取市広浦南側。
一面の砂丘になってしまいました。
幅は500m以上あります。
元は海岸林(国有林)がありました。
そんな所でもクロマツは自分で生えてきます。

ここは名取市北釜地区。
地盤沈下し、昨年夏の台風以来、ずっと水が抜けません。
一面の葦原になってしまいました。
元は海岸林の後背地で、大勢の人が所有する
一大ビニールハウス団地がありました。
おそらく、再度農地として復活すると思います。
名取市など仙台平野の沿岸部は、伊達政宗公の治世以前は
湿地帯だったと思います。古地図を見ると、池、沼地だらけです。
大雨の後は水が抜けにくく、仙台空港としても悩みの部分であると
聞いた事があります。
そのため水運目的の貞山堀や、数々の小運河、堀などが開墾と並行して
作られたのだと思います。
プロジェクト担当の吉田です。
7月8日、防潮堤工事現場を見てきました。
休日のこの日は工事も休み。
目下、全力で工事が進められ、ダンプは名取だけで1日250台。
(土砂・石材の搬入のために50台の10tダンプが最低5サイクル)
沿岸部では非常に多くのダンプが通ります。
釣り人を見かけますが、普段は完全立ち入り禁止です。
私も4月末に国交省の許可を得て見て以来、ここには入っていません。
その時と大幅に姿が変わって釘付けになりました。素直に、壮大な工事に見えました。
おそらく一部を残し、一年で完成するでしょう。
無事故のまま、進んで欲しいと思いました。
名取市北釜地区(撮影日 上:2011年5月24日 下:2012年7月8日)
第1育苗場の苗の様子
プロジェクト担当の吉田です。
7月7日、残念ながら雨の中でしたが、
世界防災閣僚会議in仙台の専門家ワークショップ一行約30名を
被災海岸林、工事中の防潮堤遠望、現存する全壊住居、地盤沈下した
ビニールハウス団地跡地、オイスカ第1育苗場を案内しました。
写真は大雨が降る前日の様子です。
![DSC_0100[1]_s](http://www.oisca.org/kaiganrin/blog/wp-content/uploads/2012/07/DSC_01001_s-300x201.jpg)
手前4列がクロマツ、その向こうはマツでなく、「枝豆」です。
今日、種苗組合の金澤専務がお見えになって、
「前からやっているプロと全く同じ成果」と評価していただきました!
東京でなく、こっちに来いとも言われ・・・(苦笑)
![DSC_0087[1]](https://oisca.org/kaiganrin/blog/wp-content/uploads/2012/07/DSC_00871.jpg)
![DSC_0080[1]](https://oisca.org/kaiganrin/blog/wp-content/uploads/2012/07/DSC_008011.jpg)
↑今年の3月に播種をしたクロマツの苗 ↑4月に植えた1年生の苗
この日は、第1育苗場班長の大友さんや、杉が袋北地区の森さん、
現場統括の佐々木さんと「とんちゃん」(ホルモン焼き)でした。
その後は、経費節減のため、いつも通り、佐々木さんと事務所横の休憩所に泊りました。
これがいいんです。
事務環境整備も軌道に
インターンの秋山君がフィリピン・ネグロス島での活動を体験するため1ヵ月不在です。
振り返りブログ5 『チリ地震津波における防潮林の効果に関する考察』
震災直後、原発の問題や余震もあり、業務途中で会議室に職員が集められて
帰宅指示が出たり、アポ先から面会を延期したい旨の電話が入ったり、
乗った電車が止まったりと非常に不安定な日々が続いた。
3月17日に林野庁に文書を届けて以降は、一転して、
静かにひたすら海岸林の資料や論文を読み漁る日常が始まった。
私は日本の海岸林については駆け出し。
海岸林が何故、何のため、人の手で作られたのか、ごく基本的な事を知る必要があった。
中でも繰り返し読んだのが、昭和35年のチリ津波から一年で出された
ブログタイトルの報告書(宮城県農業試験場・佐々君治山報恩会 1961)。
忘れられない資料である。宮城県が出したものをネットで拾った。
書いた人達の無念や悔しさ、後世に必ず役立てるという必死さ、
海岸林への愛情を持って、プロとして渾身の力で書いた迫力が冒頭から伝わってきた。
震災直後は直感でしかなかった海岸林の有用性は、
今の言葉で言えば『減災』にも資するのだと確信した。
「庄内海岸のクロマツを讃える会」の資料にも衝撃を受けた。
昭和30年代、三世代が大きな一つ傘の下で一家団欒の食事する白黒写真が
残されていることに、撮影した人の思いを感じた。
ちょっとした隙間から家の中まで砂が入るという信じられない光景。
大事なご飯に砂が被ったらどんなにガッカリすることでしょう。
もし気付かず歯で噛んでしまったら、それは堪える。
沿岸に住む人達の、風と砂との長い戦いの歴史に、
自分の関心はフォーカスされていった。
APECで小泉元総理がシンガポール首相から質問されたという、
和歌山県田辺市の濱口悟陵氏の足跡もネットから探した。
大まかに言って、この頃得たのは、日本は海と海岸林に囲まれており、
日本には日本の、世界には世界の海岸林があるのだという全体感。
特に、艱難の末、社会のインフラとして人々の手によって作られたのだという歴史観。振り返ると行動指針を定める重要な過程だったと思う。
また、阪神大震災の緊急支援の渦中で感じた我が職場の限界や、
餅屋は餅屋、長期復興支援こそオイスカ本領発揮の場との思いを強くしていった。
5月24日に初めて陸上踏査に入るときはまた、
この報告書はお守りのように、鞄の中に入っていたと思う。






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