イラスト

2012年8月13日( カテゴリー: 海岸林あれこれ )

ある海岸林を視察した折、「飛砂防備保安林」と書かれた看板にこんなイラストがありました。

なんと分かりやすいのだろう!と感心しました。
海からの風や高波、塩分などを枝葉を広げて松が防いでくれているイラストです。松の役割が一目瞭然です。
まさにイラストにあるように松が最前線でがんばり、時に犠牲になり、内陸での人々の生活を守っているのです。
最前線の松が赤く枯れたようになっているのを見て「あ~がんばってくれているんだなぁ」と感謝の気持ちがわいてきました。

2010年11月に初めて抵抗性クロマツ種子1kg(苗木2万本分)が採取された


2011年5月26日。
チーム海岸林一行は宮城県林業技術総合センター(大衡町)のマツノザイセンチュウ抵抗性クロマツ母樹園を視察した。
すでに、我々の関心は育苗にあった。
しかも、宮城県産のマツノザイセンチュウ抵抗性種苗の供給力がどのぐらいあるのか。
我々を非常に好意的に迎えていただいている感触を感じた。
 

県により毎年秋に採種され乾燥の後、種子を採種。そして春に種苗組合に払い下げられる


量は少ないものの、幸いな事に宮城県産抵抗性の開発は成功したばかり。
しかし、やはり種子、技術を持った担い手ともに不足 は明らかであった。
抵抗性クロマツ母樹園を見るのは初めて。
オイスカの清藤参事が球果(松ぼっくり)を指して
『来春、この中の種を我々が蒔く』と言ったのを聞き、実感が湧い た。
以降、ここには皆で代わる代わる足を運ぶことになる。
 

2010年11月に採種された種子で育てた苗を我々の畑にも1,000本だけ払い下げていただいた

フィリピン・ネグロス島で1ヵ月間勉強してきました秋山です。
今回はフィリピンの木についてのブログを書いてみました。
ネグロス島にはカンラオンと呼ばれる大きな火山があります。
その山の中腹にとても大きな木がありました。

日本ではまず見られない?ような幹の太さで
「樹齢1000年くらいかな?」と思っていましたが、
現地の人は「300年くらいだよ」とおっしゃっていました!
1年を通して暖かいフィリピンでは木の成長もだいぶ早いのでしょうか?
日本の樹齢300年の木と比較したりして調べてみようと思います。

いつも「海岸林再生プロジェクト」にアドバイスを下さる専門家の
太田猛彦先生(林野庁『東日本大震災に係る海岸防災林の再生に関する検討会』座長)
が本を出版されました。
タイトルは「森林飽和」。
日本の国土は森林が飽和状態であると。
日本の山がはげ山だった話や、緑が回復した話など
日本の森の歴史をたどることができる一冊です。
その本の第一章「海辺の林は何を語るか」では海岸林についても
触れられていてなぜ海岸林が必要なのかもわかりやすく解説されています。
ぜひご一読ください。
NHKブックス
「森林飽和」~国土の変貌を考える~
太田猛彦
 

サポート隊誕生!

2012年8月7日( カテゴリー: 本部発 )

「海岸林再生プロジェクト」は多くの方に支えられていますが、この度全日空さんの中に、社員の自主的な提案により「サポート隊」が誕生しました。
先日、羽田空港で行われた活動説明会に参加してきました。
大阪や福岡からも説明会に駆け付けてくれたメンバーもいました。
現場での植林など、具体的な活動がすぐにできる状況にはない中、当面の活動は募金や啓発活動になると思いますが、若いメンバーが中心になって盛り上げていってくれることでしょう。
頼もしいサポーターの誕生、とてもうれしいです!

 
 
 
 
 
          プロジェクト担当の吉田がメンバーにプロジェクトの説明を行いました

2011年4月4日、林野庁長官に面会して
海岸林再生への協力の申し出に関する説明を行った際、
半年以内に海岸林被災の実情と再生を呼び掛けるための
海岸林『シンポジウム』開催を提案した。
その場で『できるだけ早く』との逆提案をいただき、震災から4ヵ月の
7月11日の開催を決め、その日から会場探しを開始、突貫工事に入った。
ここで短時間で最も得たい成果として、
人脈を広げることと、心から応援してくれる人を探す必要性があった。
そして、長期間の目標として、そもそも何で海岸林が必要なのか、
ということを多くの方にご理解いただくことを重視しようと考えた。
この事に徹底的にこだわる長い道のりの始まりとなった。
海岸林は東北だけにある訳ではない。日本中が海岸林に守られている。
オイスカの立場から言えばマングローブもある。
私を含めて、存在理由を薄々でも理解している人は少なく、
『白砂青松』(はくしゃせいしょう・はくさせいしょう)を読めない人は多かった。
マツで海が見えないから全部伐採してくれとクレームを付ける人もいるそうだ。
全国で保全に取り組む団体や技術者は苦労しているはず。
木を植えるだけで良いのではない。仕事の意味を深く考える必要があった。

林野庁 皆川長官と面会

2011年4月21日、航空調査の朝、新木場の東京ヘリポートに着いた。
スウェーデン人のパイロット、整備士に搭乗の目的と希望する経路に加え、どのように飛んで欲しいか伝えなければならなかった。
私は英語を話せない。オイスカで一番駄目なのは間違いない。前の日に『海岸林』だけは何と言うかだけは調べた。でも何故か通じた。
最も強調し、希望したのは、波打際に沿って、その外側を飛んで欲しいこと。名取市上空を低空、スローで飛んで欲しいことと、その際ドアを開けて撮影すること。我々が何をしようとしているか、最後までしっかり聞いてくれた。
ミッションを伝え切れた手応えがあった。多分エリクソンのご担当には、飛び方や撮り方は別として、目的を伝えてあったので、会社として予め指示してくれたのだろう。

給油のため一度福島のヘリポートに降りる。東北の寒さを感じた。普段ビデオなど使わない。この時間も撮影の練習をした。
まさに千載一遇。ワンチャンスをモノにしなければならない。現地入りは目前。絶対に使える画像を撮る。パイロットが気合いを入れてくれた。
太平洋が見えてきた。地図は頭に叩き込んでいた。操縦席のモニターも見ながら、宮城最南端の山元町に入ろうとしている事がわかった。狂いなくリクエスト通り。

眼下には津波で壊滅した荒野。あっという間に海岸に出て機首を北に向けた。ほぼ全ての松が西に向かって倒れている。観察は度外視した。役に立つ画像を収める事に専念した。

ヘリコプターは速い。すぐに仙台空港が見えた。段取り通り150mの低空。撮影を動画に切り替える。ドアが開く。昔もやった。怖くない。プロカメラマンの塚本さんに教わったコツを頭の片方で唱えた。
しかし、倒れていない森の一群が時折見られる。何故残っているのだろう?誰でもわかる事なのだが、その場所を地図で探し、初陸上踏査を行ったことで、極く短時間での大きな発見に繋がる。我々のスピードダッシュは更に加速した。鳥の目で見ることの大切さを身を持って感じた。
ヘリは最大限、海岸林に沿って飛行した。気仙沼市大島で引き換えし、再び宮城南部を往路同様に飛び、二度目は少し観察の目を持ちながら撮影した。もう陸上踏査のポイントは決まった。
この動画はホームページで見ていただくことができる。

2011年4月半ば、計画停電やら余震やら不安定な日々。通常業務に加えて、海岸林の論文や資料を読み漁る日々が続き、最早、残業続きで生活は一変していた。
ある夜、共に残業の池田課長に第一級情報が入った。国際協力NGOセンター(JANIC)より、『宮城に救援物資を運ぶ民間ヘリコプターに空きがある』という。池田課長に即リアクションを頼んだ。『荷物でなく俺達を乗せてもらい、海岸林の航空調査を頼もう』と。正直言って駄目で元々と思っていた。しかし、待たされることなく、実現の方向に動いた。
混乱の最中を避け、被災地入りを調整するのは連休明け以降と決めていた。しかし航空調査ならば話は違う。
実は経験が一度だけある。2001年にオイスカが20年間植林してきたタイの東北部スリン県で全ての植林現場26個所の植林前の写真を、歴代県知事の家に訪ねてまでかき集め、陸上踏査しbeforeとafterの写真を揃えた。その後、県知事を訪ね、はしご消防車があれば(ある訳ない)、高い所から主要植林地の写真を撮りたいとお願いしてみたところ、『ヘリコプターならある』と真顔で言われ面食らった。翌日、タイ駐在員の春日さんと国軍のヘリに乗り、航空調査の意味を体で理解した。
どちらかと言えば、悪戯心が先に立っていたその時とは違い、どう考えても日本の森林史上、類のない被害を、この目で俯瞰して見ることを心から求めていた。
協力してくれたのは日本エリクソン(株)。2・3往復のメールのやり取り程度、実にシンプルで、短期間の調整の末、搭乗は2011年4月21日に決まった。
タイについては後日談があり、その県知事は2ヶ月後、『敬宮愛子様のご生誕のお祝いとオイスカの植林に感謝し日本に子象二頭を寄贈する』と記者発表。今も上野動物園で育てられている。あの航空調査のチャンスを頂いていなければ、今回も乗ろうとする発想は浮かばなかったかもしれない。

伊達政宗公

2012年8月1日( カテゴリー: 現場レポート )

プロジェクト担当の吉田です。
先日、海岸林30回目の出張にして、初めて青葉城に行き
伊達政宗公の銅像を見ることができました。
既に日没目前。
暗くてこの銅像が独眼なのか両目なのか判別がつきませんでしたが、独眼ではないそうです。
大河ドラマ『独眼流政宗』は食い入って見ていました。
この地で400年前に海岸林造成を初めて指示した存在を
とても身近に感じています。小説も主なものは読み返しました。
まだまだ知らぬことばかり。
特に治世の部分には今後も関心を持ってゆきたいです。

5月16日、林野庁『東日本大震災に係る海岸防災林の再生に関する検討会』の初会合が
宮城県庁で行われた。審議会、検討会と言う言葉は知っていたが、傍聴するのは初めて。
満員の会場には林野庁沼田次長以外、会話した事がある人は誰一人いない。
配られた資料の『海岸防災林』という見慣れない言葉を初めて意識した。
世間はクロマツに津波を止める事も求めるのかという私の感じた発言が実際にあった。
被災地の踏査の写真は凄まじい規模での状況が実際である事を証明していた。
既に再生を誓う森林技術者魂を感じた。会合は熱を帯び、資料と発言に食い入った。
日本森林史上、最も海岸林面積が豊富である現代、山林を含め史上にない被災であろう。
やはりその再生には国民運動が求められるかもしれない。
オイスカはその一端を担わなければ何のためのオイスカかと心から思った。
会合が終わったら、この中で一人でも人脈を作りたいと感じた。
座長の太田猛彦東京大学名誉教授のもとに行こうと議論の途中で決めた。
正直に言って、オイスカを相手に会話して頂けるか自信はなかった。
しかし、杞憂だった。
先生は『僕は大学生の時、オイスカが創立されたのを覚えているんだ』と。
やっぱり私はオイスカにも守られているんだと感じた。
その勢いで林野庁長官と4月4日に面会。
海岸林再生のシンポジウム開催を7月11日に予定しており、
それへの参画と打ち合わせのアポを取る事ができた。
私のような駆け出しにちゃんと目を見て話しをして頂いたことは本当に嬉しかった。
後に飛砂飛塩調査をご指導頂くことになる川邊洋新潟大学農学部教授や
他の委員の方達とも面識を持つ事が出来た。
即帰京すれば良いものを、何となく気持ち冷め止まず、
勾当台公園で資料を繰り返し読みながら、何本も煙草を吸って気合いを入れた。
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