振り返りブログ 13 シンポジウム開催に向けて
2011年4月4日、林野庁長官に面会して
海岸林再生への協力の申し出に関する説明を行った際、
半年以内に海岸林被災の実情と再生を呼び掛けるための
海岸林『シンポジウム』開催を提案した。
その場で『できるだけ早く』との逆提案をいただき、震災から4ヵ月の
7月11日の開催を決め、その日から会場探しを開始、突貫工事に入った。
ここで短時間で最も得たい成果として、
人脈を広げることと、心から応援してくれる人を探す必要性があった。
そして、長期間の目標として、そもそも何で海岸林が必要なのか、
ということを多くの方にご理解いただくことを重視しようと考えた。
この事に徹底的にこだわる長い道のりの始まりとなった。
海岸林は東北だけにある訳ではない。日本中が海岸林に守られている。
オイスカの立場から言えばマングローブもある。
私を含めて、存在理由を薄々でも理解している人は少なく、
『白砂青松』(はくしゃせいしょう・はくさせいしょう)を読めない人は多かった。
マツで海が見えないから全部伐採してくれとクレームを付ける人もいるそうだ。
全国で保全に取り組む団体や技術者は苦労しているはず。
木を植えるだけで良いのではない。仕事の意味を深く考える必要があった。
振り返りブログ12 初の現地入り~航空調査②~
2011年4月21日、航空調査の朝、新木場の東京ヘリポートに着いた。
スウェーデン人のパイロット、整備士に搭乗の目的と希望する経路に加え、どのように飛んで欲しいか伝えなければならなかった。
私は英語を話せない。オイスカで一番駄目なのは間違いない。前の日に『海岸林』だけは何と言うかだけは調べた。でも何故か通じた。
最も強調し、希望したのは、波打際に沿って、その外側を飛んで欲しいこと。名取市上空を低空、スローで飛んで欲しいことと、その際ドアを開けて撮影すること。我々が何をしようとしているか、最後までしっかり聞いてくれた。
ミッションを伝え切れた手応えがあった。多分エリクソンのご担当には、飛び方や撮り方は別として、目的を伝えてあったので、会社として予め指示してくれたのだろう。
給油のため一度福島のヘリポートに降りる。東北の寒さを感じた。普段ビデオなど使わない。この時間も撮影の練習をした。
まさに千載一遇。ワンチャンスをモノにしなければならない。現地入りは目前。絶対に使える画像を撮る。パイロットが気合いを入れてくれた。
太平洋が見えてきた。地図は頭に叩き込んでいた。操縦席のモニターも見ながら、宮城最南端の山元町に入ろうとしている事がわかった。狂いなくリクエスト通り。
眼下には津波で壊滅した荒野。あっという間に海岸に出て機首を北に向けた。ほぼ全ての松が西に向かって倒れている。観察は度外視した。役に立つ画像を収める事に専念した。
ヘリコプターは速い。すぐに仙台空港が見えた。段取り通り150mの低空。撮影を動画に切り替える。ドアが開く。昔もやった。怖くない。プロカメラマンの塚本さんに教わったコツを頭の片方で唱えた。
しかし、倒れていない森の一群が時折見られる。何故残っているのだろう?誰でもわかる事なのだが、その場所を地図で探し、初陸上踏査を行ったことで、極く短時間での大きな発見に繋がる。我々のスピードダッシュは更に加速した。鳥の目で見ることの大切さを身を持って感じた。
ヘリは最大限、海岸林に沿って飛行した。気仙沼市大島で引き換えし、再び宮城南部を往路同様に飛び、二度目は少し観察の目を持ちながら撮影した。もう陸上踏査のポイントは決まった。
この動画はホームページで見ていただくことができる。
振り返りブログ11 初の現地入り~航空調査①~
2011年4月半ば、計画停電やら余震やら不安定な日々。通常業務に加えて、海岸林の論文や資料を読み漁る日々が続き、最早、残業続きで生活は一変していた。
ある夜、共に残業の池田課長に第一級情報が入った。国際協力NGOセンター(JANIC)より、『宮城に救援物資を運ぶ民間ヘリコプターに空きがある』という。池田課長に即リアクションを頼んだ。『荷物でなく俺達を乗せてもらい、海岸林の航空調査を頼もう』と。正直言って駄目で元々と思っていた。しかし、待たされることなく、実現の方向に動いた。
混乱の最中を避け、被災地入りを調整するのは連休明け以降と決めていた。しかし航空調査ならば話は違う。
実は経験が一度だけある。2001年にオイスカが20年間植林してきたタイの東北部スリン県で全ての植林現場26個所の植林前の写真を、歴代県知事の家に訪ねてまでかき集め、陸上踏査しbeforeとafterの写真を揃えた。その後、県知事を訪ね、はしご消防車があれば(ある訳ない)、高い所から主要植林地の写真を撮りたいとお願いしてみたところ、『ヘリコプターならある』と真顔で言われ面食らった。翌日、タイ駐在員の春日さんと国軍のヘリに乗り、航空調査の意味を体で理解した。
どちらかと言えば、悪戯心が先に立っていたその時とは違い、どう考えても日本の森林史上、類のない被害を、この目で俯瞰して見ることを心から求めていた。
協力してくれたのは日本エリクソン(株)。2・3往復のメールのやり取り程度、実にシンプルで、短期間の調整の末、搭乗は2011年4月21日に決まった。
タイについては後日談があり、その県知事は2ヶ月後、『敬宮愛子様のご生誕のお祝いとオイスカの植林に感謝し日本に子象二頭を寄贈する』と記者発表。今も上野動物園で育てられている。あの航空調査のチャンスを頂いていなければ、今回も乗ろうとする発想は浮かばなかったかもしれない。
続
振り返りブログ10 『海岸防災林の再生に関する検討会』を初傍聴
5月16日、林野庁『東日本大震災に係る海岸防災林の再生に関する検討会』の初会合が 宮城県庁で行われた。審議会、検討会と言う言葉は知っていたが、傍聴するのは初めて。 満員の会場には林野庁沼田次長以外、会話した事がある人は誰一人いない。 配られた資料の『海岸防災林』という見慣れない言葉を初めて意識した。 世間はクロマツに津波を止める事も求めるのかという私の感じた発言が実際にあった。 被災地の踏査の写真は凄まじい規模での状況が実際である事を証明していた。 既に再生を誓う森林技術者魂を感じた。会合は熱を帯び、資料と発言に食い入った。 日本森林史上、最も海岸林面積が豊富である現代、山林を含め史上にない被災であろう。 やはりその再生には国民運動が求められるかもしれない。 オイスカはその一端を担わなければ何のためのオイスカかと心から思った。 会合が終わったら、この中で一人でも人脈を作りたいと感じた。 座長の太田猛彦東京大学名誉教授のもとに行こうと議論の途中で決めた。 正直に言って、オイスカを相手に会話して頂けるか自信はなかった。 しかし、杞憂だった。 先生は『僕は大学生の時、オイスカが創立されたのを覚えているんだ』と。 やっぱり私はオイスカにも守られているんだと感じた。 その勢いで林野庁長官と4月4日に面会。 海岸林再生のシンポジウム開催を7月11日に予定しており、 それへの参画と打ち合わせのアポを取る事ができた。 私のような駆け出しにちゃんと目を見て話しをして頂いたことは本当に嬉しかった。 後に飛砂飛塩調査をご指導頂くことになる川邊洋新潟大学農学部教授や 他の委員の方達とも面識を持つ事が出来た。 即帰京すれば良いものを、何となく気持ち冷め止まず、 勾当台公園で資料を繰り返し読みながら、何本も煙草を吸って気合いを入れた。
振り返りブログ9 チーム海岸林の礎
避難所での協議を終え、翌日の現場実踏の主たるポイントを下見した後、 先程同じテーブルについた被災地の方達と名取市の居酒屋で合流することになっていた。 当方8人、先方10人で予約していた。 しかし、先方は3人しか来ないという。 難しい状況下。やむなしと腹をくくった。 しかし、振り返るに、ここでチーム海岸林のコアメンバーが固まり、 チームの基礎ができたと言える。 重要な話を聞けた。 ここ名取市の海岸林の近年史だ。 『俺達が小学生の時、自分たちも含め10年かけて村中総出で、倒されたクロマツを植えた』 のだという。その時の記念碑『愛林』が津波で倒されたかもしれないが今も広浦にあるという。 仙台森林管理署長も朝の協議で『愛林組合』という言葉を使った。 今、我々の前にいる人達は人生で二度、同じ場所で大造林をすることを半ば決意した人達なのだ。 後に名取市海岸林再生の会の会長になる鈴木英二さんからは、自らが 公民館長として編纂の中心になった地元史の本を二冊頂いた。 5月24日、行政、林業事業体との協議、午後と夜の協議。 この日1日で、基本的な方向性の大半に理解を得られ、チーム海岸林の礎もできた。 歩き方が定まった非常に重要な1日だった。
7月上旬に名取に出張した時のこと。
帰京前、事務所で大友さん、森さん、佐々木さんとのとんちゃん(ホルモン焼き)で使った七輪とバーナーを、大友さんの家に返しに行きました。
大友さんの家は、仙台空港の北側。相当な強さの津波が来たところ。集落の中はまだ傷跡ばかり。直撃を受けた集落に戻った人の実状はつかみにくく、最低限の支援も行きと どかない面があると聞きます。大友さんも自宅が流されてしまい、今は残った納屋にお住まいです。
そっと置いて帰るつもりが、夜半にも、ご夫妻で小松菜の出荷に追われていました。今この地域はどこも皆、小松菜。終わるまで休む訳にはいかないとの事でした。
作業風景を写真に収めたかったのですが、名取の女性はとにかく写真に写るのを嫌がります。話題は地元の夏祭りの舞台裏になったのですが、手だけは止まりませんでした。
餓鬼の様に正直に「食べたい」と思って見ていました。
やっぱり家族とオイスカにお土産をといただくことに。スーパーのレジ袋大にびっしり。
この前は第二育苗場からもいただきました。
事務所にいたときには、育苗場の地主さんがおにぎりとおかずをたくさん差し入れてくださいました。本当においしいんです。
振り返りブログ8 初めての地元の人達との協議
2011年5月24日、行政、林業事業体との協議を終え、
以後チーム海岸林となる一行8名は、
車中でおにぎりを頬ばりながら名取市立第二中学校に入った。
阪神大震災での灘区での経験もあったので腹は座っていたが、
ビデオカメラが据えられ、協議中もずっと録画されていた。
もとより実に色々な人、中には善意と言えない人が来るのだと聞いていた。
殺気に近い、実に厳しい質問を受けた記憶がする。
我々一行も強者揃い。
話を進める私にも、助け舟や合いの手を入れてくれるので、
呼吸の間が持て、たじろぐこともなくチーム全員で主旨を伝えた気がする。
「皆さんの農家としての腕を、ボランティアでなく、
プロとして苗木の生産に役立てて頂けませんか」と。
この時、大きな驚きがあった。
震災からまだ2ヵ月、ダンボールだらけの避難所で、
『海岸林は絶対に必要』と、まさかこの様な状況下で、
聞けるとは全く思っていなかった。
今も第二育苗場をお願いしている高梨さん、森さんがその言葉の主。
今日、ここまで聞けるとは全く思っていなかったのです。
これは行ける!そう思いながら、タバコに火を付け、気合いを入れた。
振り返りブログ7 なぜ苗木づくりに着目したか?
5月24日、初の陸上踏査の最初の日程に、東北森林管理局仙台森林管理署・宮城県・ 宮城中央森林組合・宮城県農林種苗農業協同組合との協議を行った。 公の場で育苗からの協力を発言し、その日の午後、 名取市被災地農家の方達との初めての協議でも提案した。
海外のオイスカの現場では当然の事として育苗から植林プロジェクトを実施している。
我々にとって当たり前の光景。木を植えたいと叫んでも苗木がなければ仕方ない。
誰かが本格的に担い手にならねばならない。
また、自分の林業会社での二年の短い経験の中で木を植えたのは、
半日二時間小学生と体験しただけ。
今の世の中で苗木を作る供給力、担い手共に問題がないはずがない。
行政・森林組合・種苗組合との協議で、種苗生産の供給力を聞いてみた。
宮城県内で育苗農家は20人に満たないこと、 クロマツを育てていたのは7人であると知り、
被災地農家による新規参入をオイスカが生計支援として支援することを提案した。
既存の農家を圧迫する意図がないので、後日共に歩みたいとの回答を頂いた。
針葉樹生産は林業種苗法に従って行われる。
県から種子の払い下げを受けるためには、講習会を受講し、
種苗組合から組合員として加入承認を受けるなどの手続きを要する。
海岸林は森林法で規定される「保安林」。重要な存在であるという意味。
従って、苗木は「仕様書」によって定められた条件に沿うものを出荷しなければならない。
何でもいい、誰がやってもいいという訳ではない。
我々には、農家の皆さんが、海岸林の必要性を一番感じているのではないかという読みがあった。
そのプロの腕を活かして、ボランティアでなく生計支援を兼ねて担い手を増強
できないかと考えていた。また、苗木生産は女性の女性らしい力も必要とするものである。
女性を活かしたいと思っていた。
会議では手ごたえを感じた。あとは地元の農家の皆さんと話がつくかどうかだ。