名取ではモザイクの森は作らない!
本部・広報室の林です。
先週、現場視察ツアーで見てきた中で感じたことをご報告します。
昨年秋以降、仙台市荒浜地区を繰り返し訪問し、
公共工事の植栽箇所や14の民間団体による植栽箇所も勉強させていただきました。
その植栽手法は実にさまざま。写真1は、紙のボックスに入れた苗3本を一緒に植えていました。北海道でも使われている技術だそうです。
写真2では根元にチップを敷いていました。夏に海に行くと砂浜は裸足では歩けないほど高温になっていますよね。そんな高温から苗を守る働きのほか、乾燥や飛砂を防ぐ役割も担っています。
写真3では、簡易的なものではありますが、防風・防砂のための小さな柵が立っていました。
このようにそれぞれ団体ごとに工夫して植栽、管理がなされていました。
そしてそこには「●●の森」というようにその団体の名前がついた看板が掲げられていました。
ここで感じたのは、担当者の吉田がいつも口にしている
「海岸林ではモザイクの森を作りたくない」
「“オイスカの森”ではなくて“名取市民の森”をつくるんだ」
ということの妥当性。
ほんの2haにも満たない土地に14もの団体が(しかもそのうちの1団体は植栽を終えていませんでした)
それぞれのやり方で森を作ったらモザイクのようになってしまいます。
憩いの場となる内陸の市民公園での記念植樹規模であるならそれでいいでしょう。
しかし、人々の生活を潮風や飛砂から守るための「インフラ」である海岸林がそれでいいのかと疑問を持ちました。
ここは海岸から600m以上離れた場所。
最前線ではないのだから、許容範囲なのかもしれないし、さまざまな事情があったのかもしれません。
ただ、もっと気になるのは、他の地域から来た人たちが“自分たちの思い”でそれぞれに作った森を
地域の人たちが愛着を持って長く見守ってくれるのかということ。
オイスカでは、たくさんの企業や団体の皆さんにご協力いただいて
海岸林の再生活動を進めていますが、皆さんには企業名を冠した森にはならないということ、
そこは「名取市民の森」となることをご理解いただいています。
地域の人たちが植え、育んでいく森でなければ
何百年という年月、そこに存在しないのではないかと思うのです。
オイスカが名取市の海岸全体に相当する100haの再生を
「名取市海岸林再生の会」とともに担いたいと考えるのには
「モザイク」ではない「名取市民の森」を作りたいと考えているからなのだということが
とてもよく分かる現場視察でした。
最後にもう一つ印象的だったこと。
「1haでできることと、100haでやらなければならないことは同じではない」
という林野庁の方の言葉。
今回視察した植栽地で各団体が取り組んでいる手法の中には、
クロマツの生育にとって望ましい環境を作り出しているものもありましたが、
それを100haの植栽で同じようにできるかといったらコストなどの面で現実的ではないものも多々あるのです。
人や資金、資機材、あるいは期限など限られた条件の中で最高のクロマツの森ができるよう
今後も国や県、市、そして市民との対話を重ねながら前に進んでいきたいと強く思いました。
菅野レポート その1 育苗農家視察編
名取事務所の菅野です。
9月に入り厳しい暑さもなくなり、過ごしやすいこのごろです。
8月末、育苗の勉強のため、近くの種苗組合員2名の方の圃場を
海岸林再生の会のメンバー4人で見学にいきました。
場所は蔵王町(ここから30分くらい)山の上です。
伸びの良いにびっくり(下写真左)。肥料のやり方、水のやり方などを聞き指導してもらいました。
また、コンテナの下にビニールを敷いているため(下写真右)根が土に通らないようになっていました。
うちの育苗場では、土の上にそのままコンテナを置いているため、下の穴から伸びた根が、
土の中にまで伸びてしまっていますが、この方法により断根されるのだそうです。
こちらの育苗場では、活着率はあまり良くなかったそうですが、伸び方が順調とのことでした。
まだまだ手探り状態での育苗です。
これからもいろいろと勉強しながらいい苗を育てていきたいと思っています。
今日は視察ツアーが開催されました!
本部・広報室の林です。
日頃ご支援いただいている企業の担当者の皆さんと共に視察ツアーに参加しました!
オイスカ会員やスタッフを含む36名と共に仙台駅からバスに乗り込み出発。
車内でも現場でも林野庁・東北森林管理局の方が、宮城の海岸林の歴史や
その復興、そしてそれにまつわるお話を聞かせてくださり、とても勉強になりました。
始めに視察をしたのは仙台市若葉区の荒浜地区の植栽地。
ここは、14の民間団体が仙台森林管理署との協約を結び、植栽しているところです。
ここで見て、感じたことに関してはまた後日ご紹介しますが、伺ったお話で印象に残ったことをひとつ。
この植栽地は荒浜小学校のすぐそばで、校舎がよく見えるところにあります。震災当日、小学生約100名が校舎の上階に逃げ、助かったそうですが、町が津波に飲みこまれていくのを目にした子どもたちの心には大きな傷跡が残ったようです。
海岸林の再生に向けた第一歩となる植栽の日、地域の人が参加する中、子どもたちの姿はほとんど見られなかったそうです。彼らにとっては、戻りたくない場所になってしまっているということが心に刺さりました。

やはり知識や技術のある方がやらなければいけないのですね。
スコップで少し掘ると水がじわ~っとしみてくるところもあるそうで、日頃聞いている「地下水位の高い所だ」という話が実感できました。
ここで植えられていたのは「コンテナ苗」でした。
来年以降始まるであろう植栽作業がイメージできました。
オイスカと名取市海岸林再生の会の育苗場に行く前には防潮堤と海岸林造成する前の盛り土工事の現場も視察。
名取市の海岸線は約5㎞。そのすべてではありませんが、海岸線に沿って続く防潮堤と盛り土の間を車で走り、「あ~ここにクロマツを植えるんだ」と気の遠くなる思いがしました。

草取り作業をしようというやる気に満ちたその姿に感動したのもつかの間、あまりに集中して作業が進むので、翌日の「草取りボランティア」用の草がなくなってしまうのではないかと心配になる・・・というほど皆さん熱心に作業をしてくださいました。
本当に皆さん、ありがとうございました!
夜の懇親会でも、各企業さんが取り組んでいらっしゃる復興支援活動などのお話や会社としての社会貢献に対する思いを伺い、とてもいい時間を過ごすことができました。
素敵な方たちと一緒にこの海岸林の再生に取り組めることを本当にうれしく、ありがたく感じた視察ツアーでした。
2008年 岩手・宮城内陸地震の爪痕
先日岩手・宮城内陸地震の「震災遺構」について紹介しましたが、
今日はその爪痕について(本当はこちらを先に紹介するべきでした・・・)ご紹介します。
岩手県一関市から栗駒山に向かって車で1時間、ここを通りがかる人は、かつて大変な何かが起こったことは一目でわかります。
2008年に地震は発生しましたが、日本最大、世界トップ級といわれる無数の地すべりなどが、栗駒山周辺で起こりました。
ズタズタになった山肌の航空映像が皆さんの記憶にもあるかもしれません。
私は当時林業会社に勤めていましたが、翌週から我々労働者は、この話題で持ちきりでした。でき
「平日だったら山の労働者も亡くなったかもしれない」と。
関東大震災でも、丹沢は何千か所とも言われる無数の山地崩落が起こり、
その爪痕は今でもたくさん残っています。
深層から崩壊し、植生が回復しない場所に、林業の仕事を通じて遭遇しました。
ここ栗駒山では、東日本大震災の宮城南部と同様に、甚大な被害からの復旧のために、国有林だけでなく、あらゆる森林所有者に関わりなく、国が中心となって事業を進める「民有地直轄治山事業」が行われました。
「10年かかる」といわれた大事業を前倒しで完了したと、しばしば聞きます。人材難、資材難が今後も続くだろうこの東日本大震災でも、最後はきっと前倒しになると思いたい。
「復興が遅れている」という指摘は現実かもしれませんが、聞くたびに悔しく思うこの頃です。
最前線で任に当たる人たちの「今に見よ」と声なき声も聞こえます。
えりもの緑を守る会
また先月行った襟裳岬の話ですが・・・。
私たちには「名取市海岸林再生の会」がありますが、2020年に海岸林再生プロジェクト10ヵ年計画が終わったら、「名取市海岸林を守る会」に名称変更し、運営形態を新たにすることを念頭に置いています。
今回の襟裳岬訪問の目的は強風対策などの視察はもちろんですが、「えりもの緑を守る会」の運営や地元と行政の協働について学ぶことも大きな目的の一つでした。行政マンや森林組合の主軸の方が、見ず知らずの我々に時間を割いてくださいました。
一言で言って、「先人の取り組みへの深い敬意」「行政と民間の一体感」という非常に強い印象を受けました。プロ中のプロが一生懸命説明してくださる熱意に、直接触れることができたのは大きな収穫です。これが核心部分ですから。人を残すという事が最も難しいことだと思うのですが、長い年月をかけて若い世代に受け継ぎ、また、皆で協働して取り組んでいるからこうなるのでしょうね。最高のお手本でした。
「何もない」と歌われた襟裳をはじめとする日高南部地域に、長い協働の結果、民有林と国有林の仕事が創出され、森林組合は半漁半林、45名もの雇用をもたらし続けています。地元経済における存在感も大きいことでしょう。また、森林組合が各方面に対する潤滑油や接着剤のような役割を果たしている印象も受けました。(私、森林組合に入りかけたことがあったので、余計に嬉しく)
「えりもの緑を守る会」は町役場が事務局となり、漁協や森林組合、地元の各団体が加盟し、国有林とは「協定」を結んで地道な活動を続けています。あくまでも「地元が主体」という明確な姿勢の一端も垣間見ました。
年に2回、植樹祭と育樹祭にはそれぞれ、
「浜の父さん」「浜の母さん」たち、住民の5人に1人が参加するようです。
要するに各世帯から一人。すごいことですね。
かつて自分が植えた木を見るのが楽しみなのだそうです。集合すると「勝手に作業をはじめて」しまうようなところがあると。ですが、作業が的確だから、進行する側は苦笑するしかないという様子が目に浮かびます。「ちょっと集まり過ぎ…」という裏方さんの声も聞こえてきそうです。
一日にしてならず。並大抵の事業ではないですね。
お世話になった林野庁北海道森林管理局、日高南部森林管理署、えりも治山事業所、えりも町役場、ひだか南森林組合の皆さま、ありがとうございました。いつか、海岸林再生プロジェクト10ヵ年計画に関わる関係者にこの姿を見せたいと強く思っています。
私の9月11日 「命を懸けて復興を」~あの日から2年半~
震災から2年半が経った9月11日。
私も宮城にいます。
村井嘉浩宮城県知事は、県議会で3期目出馬を正式表明されました。(10月27日投票)
知事とは今年の3.11に経済同友会のパーティーでお話させていただく機会をいただきました。
真っ直ぐ正面から、穏やかに私の目を見て、話を聞いてくださったのが強く印象に残ります。
河北新報によれば、
「東日本大震災からの復興を担う大事な時期に、
知事という職務が私に与えられた天命であるとするならば、
県政運営の重責を担い、引き続き宮城県の復興のために命を懸けたい」
「復興途上にあり、これを再生期、発展期へと導かねばならない。
2020年度までの県震災復興計画は私がつくった計画なので、 その責任を負いたい」
と述べたそうです。
2020年は「海岸林再生プロジェクト10ヵ年計画」の最終年。
東京オリンピックも開催されます。
私たちも復興の一端を担う一員として、知事の言葉に共感し、気持ちを新たにいたしました。
この災害を後世に伝えよう②(2008年岩手・宮城内陸地震の震災遺構)
この災害を後世に伝えよう①(2008年岩手・宮城内陸地震の震災遺構)
先日、いつもの通り名取出張後の各地視察に出かけました。
栗駒山(秋田・岩手・宮城の3県にまたがる山です)に向かう国道沿いは、
世界遺産平泉との一体化を目指す骨寺荘園跡の素晴らしい田園風景もあり、見どころが満載でした。
骨寺を抜けると、2008年の岩手・宮城内陸地震の震源地に近づきます。
道沿いの全てが「震災遺構群」。山裾の「道の駅」の案内地図でもそれを知らせています。
話は変わりますが、9月1日の「防災の日」に合わせ、河北新報社は震災遺構について連日取り上げました。
■復興祈念公園 国、施設整備へ検討委 ~石巻と陸前高田 年度内に基本構想~ (8月30日)
「石巻では宮城県と市が共同で、陸前高田では岩手県が整備し、国は両施設内に祈念施設を造る見通し」
■海嘯記念館、現存一か所のみ ~昭和三陸津波後、宮城沿岸に33ヵ所に設置~ (9月1日)
「人は忘れやすく、体験を語れる人もいずれいなくなる。伝承のあり方を工夫しなくてはならない」
■きょう 防災の日 ~「メモリアル事業」のいま~ ~中越地震被災地の取り組み~ (9月1日)
1995年の阪神淡路大震災の震災遺構は、ほとんど残っていないようです。
それに対し、新潟中越地震、岩手・宮城内陸地震を経て、
東日本大震災に関してはほぼ全ての自治体でメモリアル事業が計画されています。
ですが着手に至っているのは岩沼市等ごくわずか。
優先すべき他の課題が山積している事情、メモリアル事業開始年度が遅く設定されている事、
事業費の確保が壁になっている事など、遺構整備はこれからの事です。
名取市でのメモリアル事業の情報は目下とくに聞いていませんが、
復興計画ではメモリアル公園の記載はあります。
仙台空港横には名取市海岸林再生の会の鈴木英二会長のご自宅が、荒野の中にただ一軒、今も屹立しています。
空港にほど近い、徒歩でも行ける位置ですので、最終的には公園になるなどの可能性がありますが、現時点では明確な指針はありません。残し続けていることで、様々な意見が寄せられていると推察しています。
新潟中越地震の復興において、「時の経過とともに、震災遺構を残そうという声が強まった」とのコメントが紙上に紹介されていました。
震災から2年半を迎えます。海岸林再生もまさに本番を迎えようとする時です。
我々復興に従事する関係者は、この災害をどのように伝えてゆくべきかも含め、
今こそ将来を見据えたグランドデザイン、将来イメージを共有したいですね。
岩手・宮城内陸地震の震災遺構については明日、写真を中心にご紹介します。
まもなく震災から2年半が経ちます。時期柄、世間では中間決算。
来年度の事も自然と気になりますね。 私にとっては棚卸しの季節でもあります。
NHKスペシャル 震災ビッグデータ File.2「復興の壁 未来への鍵」を見て、
「コネクターハブ」という新しい言葉を知りました。
「負の連鎖」ではなく、「活性化の連鎖」への道筋でしょうか。
たとえ今、まだ震災前の状況に遥か及ばなくても、優良な関係先と数多く接点を持ち続けることで、
知らずと自分も、周りをも伴って活性化に導くのが「コネクターハブ」と解釈しました。
私たちは被災地における鍵を握る「コネクターハブ」となって、復興に寄与出来ているか。志向しているか。
棚卸しをするにあたっての、恰好のチェックポイントのヒントを得ました。
この番組を作った人たち、すごいなあと思いました。
地場産業には「振り屋」と言われ、中小・零細企業に仕事を回す会社があるという。
製氷や製缶が多いというのはちょっとピンときませんでしたが、
全体の情報が入るという事のようです。
震災後、石巻では必ずしも大手ではない会社が、自身も自覚せぬうちに「振り屋」の役割を果たし、
企業同士を結び付ける存在になっていた。「コネクターハブ」になっていたというのだ。
たらこ製造の「湊水産」で、震災後に僅かに残った設備を活かしインターネット販売に力を入れた。
ネット通販を運営する東京の大手企業との結びつきを得たその先には巨大なネットワークがあった。
「湊水産」は9千社以上をつなぐコネクターハブになり、他の取引先にも活性化の連鎖が起きたという。
苦しんできた企業は「強いコネクターハブ」との取引が増えることで好調に転じる機会を得ているという。
こうしたコネクターハブを見出すことも「行政だからできること」
http://www.tdb.co.jp/report/specia/1309_media.html (帝国データバンクHP)