再生の会インタビュー 大友祐一郎さん①
今回は大友祐一郎さんのインタビューをご紹介します。
≪3.11の震災当時≫
地震は、当時勤めていたJAにいたときに起きました。
すぐに自宅へと車を走らせました。
車の中でラジオを聞いていたから、
本当は大津波警報が流れていたと思うけれども、動揺してたんですね、
何も覚えていない。
頭の中にあったのは、余震の恐怖だけ。
昭和49年の宮城沖地震のときは大きな余震が来たもんで、その記憶が強かったんです。
津波は、地震から約1時間後に来たんです。
地震直後には停電していたから、家に帰ってから自家発電機を点検していたとき、
ラジオを聞いていた家内が「仙台空港に津波が押し寄せたみたい」と言ったんで、
ふと目を上げたら、真っ黒い波が足元に来ていました。
戸を閉めるのがせいいっぱいでした。
2階の窓から、ものすごい速さの津波が周辺の物を押し流し、
押し流された物がぶつかったり、わが家にぶつかったりするのをただ見ているだけでした。
車も流れていく、ビニールハウスも流れる・・・・・・。
昼間なのに暗くてね。
≪フクが来た!≫
震災当日の夜は二階で寝ました。
1階は海水と泥と流れ着いた物でグチャグチャでした。
次の夜は、町内会長の大友秀雄さんが、
小学校に避難してと言いにきてくれたんで行ってみたら、体育館はもう人でいっぱい。
教室を借りたけれど、後から来た者には毛布も回ってこない。
カーテンを外して床に敷いて何とか寝ましたが、80過ぎの親父が気になって、
親父に「家に戻ったら死ぬかも知れないけど、いいか?」って聞いたら
「いい」と言うので、その夜からは家に戻りました。
冷蔵庫に残っていたものを食べたけど、何を食ったんだか記憶にないなぁ。
1階は泥で埋まってましたが、2階は寝ることもできたし、なんとか暮らすことができました。
その海水泥の中に生きたフグが紛れ込んでいて、
それを見た親父が「フク(福)来たから大丈夫!」と言ったんです。
励みになりましたよ。
そう考えると、作業用倉庫が引き波にも耐えて残ったし、プロパンガスも残った。
倉庫の中には冷蔵庫3台と、冷凍庫1台、カセットコンロも入っていたから、
当面、食べ物には不自由せず、ラッキーでした。
家族、親戚からも犠牲者も出なかったし。
フグは大事に飼っていましたが、1ヵ月しか生きませんでした。
≪海岸林再生の会との出会い≫
あの頃は、この先どうなるのかなんて考えてなかった。
今日一日を凌ぐことに精いっぱいでした。
瓦礫と泥で埋まったうちの畑には家が3軒流れ着いて、
そこからは遺体が2体発見されていたし、毎日、自衛隊の手伝いに明け暮れる日々でした。
そんなときに、大友秀雄さんたちが
「名取の海岸林を再生する会を発足したんだけど、協力してくれないか」って声を掛けてくれたんです。
即、賛成しました。
気心が知れた大友さんらの声掛けだったし・・・・・・
なんか「再生」という言葉が心に引っかかったというかね。
➁に続く
再生の会インタビュー 武田昭夫さん②
①に続いて武田昭夫さんのインタビューを紹介します。
≪やっと植樹する喜びが分かってきた≫
再生の会の作業としては、忙しいときで、
1ヵ月に2週間弱活動をするような塩梅でしょうかね。
会員になってすぐに育苗作業を手伝い、
今年は2年前に直播きした分を抜いて、床替えをする作業などをしました。
3月後半からはポット苗にするために、ポットに土を入れていって、
4月後半からはそれらのポットに種まきをしました。
第二育苗場の土の固さにはちょっと苦労をしましたが、今年の植樹祭も無事に迎えられたし、
やっとマツを育てることの喜びが分かってきました。
土いじりはもともと好きで、家の庭の植木の手入れも自分でしますし、
野菜も育てていますが、松林をタネから育てるというような、
ご先祖がやってこられたことをまさか自分でやるとは思わなかったですよ。
まだまだ元気ですから、75歳ぐらいまではやるかな(笑)。
≪震災への関心、風化が心配≫
復興の進展具合には、同じ名取市内でも差があります。
閖上地区は被害も大きく、人口も多い。
さらには先祖代々からの住民と新興地にあとから移り住んだ住民とが混在し
元々住んでいた住民が少数派、しかもこの辺とは違って漁業関係者が多い、
というようなさまざまな要素が、復興計画のまとまりを阻んでいます。
比較的復興が進んでくると、今度は震災に対して関心が薄れてくるのも、
ある意味自然なことではありますが、町内会長として、
何とかこの名取にとっての海岸林の重要性を理解していってほしいと思っています。
地道に新しい人たちにも声をかける以外に妙案はないですね。
この間も、オイスカの吉田さんにチラシをもらって周辺全戸に配布しました。
ボランティアに参加してくださる人も何人かあって、
皆さん、あの300m幅に植えられたクロマツの列を見ると感心されます。
県内外からも多くの関心が集まるといいですね。私もがんばります。
インタビュー文責:徳田祐子(オイスカ本部ボランティア)
インタビュー日:平成26年7月25日
こんにちは。浅野です。
先月末にインタビューをしに名取へ行ってきました!
と言ってもインタビュアーは私ではなく、ボランティアの徳田さん。
徳田さんは本職はライターなのですが、
東京本部で週2回ほど、広報を中心にボランティアをしてくださっています。
まずは武田昭夫さんのインタビューを2回に分けてご紹介します。
≪町内会長として復興に率先≫
私の家は海から約4㎞内陸にあります。
わが家周辺は津波による冠水が45㎝になりました。
うちの畑には幸い海水は入りませんでしたが、
町内(本村)の被害は、64戸中、床上浸水1軒、大規模半壊5戸。
あまり顧みられることがないのですが、屋敷林の津波被害というのも見過ごせませんで、
津波の入った屋敷林は震災後1年で枯れてしまったんです。
屋敷林は64戸ありましたが、うち35戸の屋敷林が枯れてしまい、
名取市に掛け合って伐採をお願いしました。
復興を受け身で待っていても意味がないというので、
まず自分たちの生産組合を中心に復興組合を立ち上げました。
地元でできること、できないことを仕分けして、みんなで瓦礫を片付けたり、
農業用水の修復などに精を出す一方、重機を使用するような事は市の方にお願いをしました。
お陰で震災の翌年の5月に田植えができました。
うちの地区の動きは総じて早かったと思います。
≪震災の翌年、海岸林再生の話を聞く≫
町内会長仲間である鈴木英二さんや、大友英雄さんたちから、
海岸林の再生の会のことは以前から耳にしてはいましたが、
私にも参加してほしいという依頼がきたのは、震災の翌年です。
ぼくらの地区の農地が1年で復興したので、今度は海岸方面を手掛けなきゃと
思っていたところだったので、一も二もなく協力しました。
昨年(2013年)の夏ごろ会員登録をして、秋から活動に参加しました。
≪海岸林には格別の思い出が≫
小学校のころ、広浦の南側、貞山濠の西側に、
ぼくらの「学校林」(仙台空港北側・海より2km)があったんです。
マツだけの林でね、それを一生懸命手入れしたものです。
それが全国一の学校林として、優秀賞をもらったことがありました。
(全国学校緑化コンクールで昭和27年準特選、翌28年特選)
小学校も4年生になると、5、6年生と一緒に、冬は松ぼっくりを拾いに
海岸まで1時間の道のりを歩いて行くようになります。
南京袋と呼ばれた麻袋いっぱいに松傘を詰めて、
さすがにそれは牛車で学校まで運ぶのですがね。
夏は、い草干しの思い出ですね。
昭和30年代から50年代まで、この下増田は東北地方有数のい草の産地でした。
わが家は非農家で、父は農協勤務でしたが、田畑も3反歩ぐらいあってい草も作っていました。
い草刈りは夏が本番です。
子どもの背丈ほどになったい草を刈ったあと、白い泥水状の石灰顔料に浸すんです。
それを早朝に、北釜海岸まで持っていって砂浜に広げるんです。
い草が乾く間、松林の中でご飯を食べたり寝転んだり、
子どもは海で泳いだり、楽しい時間を過ごしたものでした。
母方の祖父母の家は、現在の仙台空港の東のほうにありましたが、
そこでもい草干しはもちろん、祖母などは砂浜にハマボウフウを植えていました。
ハマボウフウは毎年、新芽を摘んでそれを酢味噌和えにしたり、
大量のハマボウフウを味噌漬けにして食べたものです。
松林は私たちにとってごく身近な存在で、あちこちに植林の碑があります。
下増田公民館には、初代の阿刀田義潮村長の植林の碑があります。
名取は、伊達政宗の時代だけではなく、明治の後半から昭和にかけても
地元民を巻き込んで植林をしてきた町だということをよく聞かされていました。
②へ続く…
大阪マラソン チャリティランナー決定!
今年10月26日(日)に開催される第4回大阪マラソンのチャリティランナーが決定しました!
プロジェクトの趣旨に賛同していただいたランナーは総勢24名。
支援企業・労組、一般から名乗り出てくださいました。
オイスカ職員からも女性2名が走ります!
チャリティランナーは、
Justgiving Japan(世界最大の募金サイトの日本版)のサイト に
自ら登録して、チャレンジ宣言を行います。
9月末までに目標金額達成に向けて、
SNSなどのツールも大いに活用しながら募金活動を行います。
ランナー一覧、ご寄附はこちらから。
ぜひチャレンジの様子をサイトからご覧いただき、
ランナーの方に応援コメント、ご寄附をお願いします。

本番まであと、2ヵ月。
みなさん、応援よろしくお願いします!
山元町、亘理町の海岸林復旧現場
宮城南部、山元町、亘理町の海岸林復旧現場を
久しぶりに見てきました。震災以降、何度来たことか。
「●●会社が●ha取った(落札した)」
こういう話を時々聞いていましたが、名取の現場で精一杯。
とても見に行く余裕はなく.
我々は公共工事と異なる枠組み.
方法論は違いますが、「復旧」「復興」という大目的ではまったく同じ。
天候に恵まれましたが、クロマツのコンテナ苗はどこも好調のようです。
壮大な規模で工事は進んでいます。盛土工事も次々と。
植え付け後の光景は、やはり美しく見えます。そして励みになります。
作業にあたった方は、自分の仕事を振り返って、誇りに思っているのではないでしょうか。
日曜日ですから、職人さんの話を聞くことはできず残念。
どこに行っても排水施設は真っ先に完成しています。
だからこそ、一層、地盤沈下の現実を感じます。
背後の農地、集落を見ると、時が止まったままの場所は多く、
傷跡は生々しい。いまだ道半ば。ですが、来るたびに生活感が増している感じを受けます。
秋には、亘理に日帰り温泉が再開します。
再生の会の事務局のKさんの自宅跡はすぐそば。
海はやっぱり綺麗でした。
次は、太平洋を見ながらゆっくり風呂に入ろう。
外来種の樹木で、全国の海岸林で苦労しているニセアカシアが、
私たちの現場周辺でも、特に空港誘導灯周辺、生物多様性配慮ゾーンや
試験地、私有地などに発生しており、許される場所だけでも、除伐させてほしいと相談しました。
海岸林造成の復旧方針の推奨樹種に、ニセアカシアとは書いてありません。
ニセアカシアは、鉱山跡地などの造林が大変困難な場所や、かつて海岸林の造成において
肥料木として植栽されるなどの経緯もあったと聞きました。
少なくとも、海岸林に関しては、大きなミスチョイスだったのかもしれません。
蜜源植物としてハチなどは大好きです。白い花が咲き、それは綺麗です。
私は少年野球を手伝っていた多摩川のグランドで、
台風や大風の後、樹齢30年程度ながら大きな木が根っこごと、何本もひっくり返り、本当に迷惑したこともありました。自分は倒伏して次世代のニセアカシアに交代しようとするんでしょう。
もっとも、河川敷のグラウンドは、野球やサッカーおじさんたちの草刈りで、次世代は完全に駆逐されてますが。大木なのに、河川敷ですから地下水位も高いせいか、根がとても浅かった。
今、我々の特に来年の現場付近で発生している場所は、盛土のない旧来の地盤ですから、浅い場所では70cm程度で地下水位に到達する場所です。
凄い繁殖力です。
風で種も飛ぶし、根でも広がってゆきます。
根っこの破片だけでも増えるとか。
先週行った秋田の由利本荘でも、海岸林での根絶の方法はないのかと
地元の方や、行政マンがこぼしていました。
同じく秋田の能代では、毎年多くの企業・団体、多くの市民が延々格闘していますし、
シルバー人材の方数十人が、毎週3日8時半から終日、林業用草刈機で除伐しています。
あれは大きなトゲがあり、痛いなんてものではありません。
プロだって嫌がります。
脱線しますが、海外ではかつて「ユーカリ論争」がありました。
オイスカが1980年ごろ植栽した「お坊さんが鳥も来ないような荒野を見て涙を流した」
という名前の東北タイの村で、ユーカリしか植えられない「土漠」のような土壌だから先行して植栽する樹種として植えたのに、
当時、日本の有名評論家に全国放送で名指しで批判されたことがあるそうです。
植栽から20年後、私が調査に行ったとき、多様で、多層の広葉樹林となり、食用可能なキノコが豊富と村の人から聞きました。人が管理し続けたことも聞きました。
その後、2002年にそのスリン県から、愛子さまご生誕と、その現場を皮切りに20年、数十か所で360ha造林を続けたオイスカへの感謝として、
タイから上野動物園に小象2頭が寄贈されました。縁あって前後6年ほどタイを担当し、「象担当」でした。
現場で、地元の人やプロ、行政マンと話しましたが、
「およそ木という木で、全てが害という木はない」という言葉を思い出しました。
ユーカリ同様、ニセアカシアだってそうだと思います。よくよく考えて選択したのでしょう。
佐々木統括も、それに近い意味の話をしていました。
しかし、長くなってしまった話を海岸林に戻すと、
もちろん試験地、生態系配慮ゾーンでは許可なしに除伐できません。諸事情があることは百も承知しておりますが、葛とニセアカシアだけは、あとで戦う人の身になってほしい~
海岸林再生に関する、林野庁の現場の司令塔である東北森林管理局(秋田市)訪問の後、
ちょっと大回りして三陸の様子を見に行きました。
本当は宮古市辺りから南下したかったのですが、秋田出発が1時を回り、奇跡の一本松を見たくてと
いうわけではなかったのですが、結果的に陸前高田市に出てきました。
宮城県外沿岸部は行く機会もなく、やはり百聞は一見にしかず。渋滞がひどく、トイレ休憩程度しか止まりませんでしたが、復興工事の進捗状況を目で見ることができました。
圧巻。
付近の山を削って、ベルトコンベアーで24時間地盤沈下した沿岸部へのかさ上げ用の土砂を供給しています。同じ光景は東松島市の野蒜でも見ました。
驚異的な地盤沈下の光景でした。
奇跡の一本松はその中の真っ只中にありました。
一本松のすぐ横の海抜ゼロメートル以下に沈み、震災後そのままで傾いている幾つかの公共施設。桁外れな規模のかさ上げ工事。土砂がどれだけ必要になるか。
先日は宮城南部や福島北部沿岸を見て、今回は岩手最南部と宮城北部を見て
防潮堤や海岸林に関しては、いかに仙台南部が先行しているか、よくわかりました。
海岸林では、これで10回目ぐらいの訪問でしょうか。
学校の森・子どもサミットの前身行事を、東北森林管理局の皆さんと実施した
2010年を含めれば、10回をゆうに超えると思います。
今回も佐々木統括と車で二人旅。
今年度分植栽完了の報告と御礼でした。大事な仕事ですから緊張します。
つい先日新しく着任された東北森林管理局長をはじめ幹部職員の多くの方に、
現場の様子をつぶさに報告しました。
当初は「オイスカって何スカ??」と林野庁や宮城県庁、名取市役所…。
全ての方がそう思ったと思います。逆の立場に私がなれば、やはり不安だったと思います。
今回の面会での「ホッとした」というある方の一言で、私もホッとしました。
総合窓口としてお世話になっている方は、本格的に真っ黒に日焼け。
前日も仙台の酷暑の海岸林現場で、毎月コンテナ苗を植栽し経過を見る実験をしていたそうです。
同じ時間、私たちはニセアカシアの状況確認を当局の方と視察していましたが、
逃げる場所がない現場で大雨に降られましたね。お互いちょっと離れた場所で。
また、2010年にサミットをご一緒し、2011年3月に海岸林に関するファーストコンタクトしたSさんが
本局に戻ったと聞いていたので、数年ぶりにご挨拶できました。
昼休みになってしまったのですが、顔を見るや、ドでかい声で
「オー!」
当時、課長のTさんは霞が関の廊下でもよく会えますが、
先週の出張では、まさに震災直後、3月13日に携帯に電話したIさんにも秋田署で会えましたし、
めったに会えないお二人と再会して報告できたのが、何より嬉しかったです。
この人間関係がなかったら、最初の電話はかけることはできなかった。
前回は青森事務所も訪ね、帰路、八甲田山を通り、
死の行軍について統括から詳しく教えてもらい、帰京してからその映画を見て復習。
「リーダーが間違えたら、下手すると皆を死なせてしまう」。
今回は少々無理して、岩手の復興状況を一目見ようと陸前高田を経由。
東松島同様、地盤沈下からの復旧工事現場でした。
とても海岸林どころではない。















